延岡方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
征討軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第2旅団が14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、征討軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000〜3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた。 友内山・無鹿山方面(2箇中隊)伊東直二(奇兵隊) 神楽田・和田峠(7個中隊)相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊) 和田峠北・小梓峠山崎定平(熊本隊) 小梓峠・長尾山野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊) また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5個中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する5個中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。 対する官軍(約50,000名)は山縣参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに 右翼方財島方面 ─ 新撰旅団 中央無鹿方面 ─ 第4旅団 和田峠・堂坂方面 ─ 別働第2旅団 左翼長尾山方面 ─ 第3旅団 と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には 可愛岳南麓 ─ 第3旅団 可愛岳西麓 ─ 第1旅団 熊田の北部には 熊本鎮台・別働第1旅団2個中隊 と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。 15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第2旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第2旅団は危機に陥った。しかし、第4旅団の左翼が進出して別働第2旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて征討軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は征討軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、征討軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に征討軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。
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