延岡藩領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 01:56 UTC 版)
日向延岡藩が豊後国内に領地を持つようになったのは、正徳2年(1712年)7月に牧野成央が三河吉田藩8万石から日向延岡藩8万石に転封され入部して以後のことである。 前の延岡藩主・三浦明敬(三河刈谷藩へ転出)の知行高は2万3千石しかなかったため、差額の埋め合わせ分として、日向国内の諸郡と豊後国内の三郡(大分・国東・速見)にあった幕府直轄地を新たに延岡藩領に編入した。延享4年(1747年)3月には牧野氏に代わって内藤政樹が陸奥平藩7万石から日向延岡藩7万石に転封されて入部する。この時、牧野氏時代に比べて所領が1万石減少したが、豊後領分については牧野氏時代と変更無くそのまま内藤氏の所領とされた。廃藩置県に先立つ明治4年2月22日(1871年4月11日)、延岡藩の豊後領分は日田県所轄の日向国内五郡(旧富高県域)と交換されたため、延岡藩による支配は終了した。 大分郡内の延岡藩領は35村(うち相給は3村)である。牧野氏は入部直後に山津(現・大分市山津町)に役所を設置したが、正徳5年(1715年)に千歳(現・大分市千歳)に役所を移転し代官所とした。千歳代官所は延岡藩の豊後領支配の拠点となり、内藤氏時代にも引き続き利用された。
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