延岡藩改易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:25 UTC 版)
紹運の長男・統虎は、立花道雪(戸次鑑連)の強い要請により養子とされたため、高橋氏は次男・統増が後を嗣いだ。しかし関ヶ原の戦いで兄弟は西軍について共に改易。徳川秀忠に兄が召し抱えられた後、弟・統増も秀忠に拝謁を許されて任官を認められたが、その際に本多正信の薦めで、兄の家号に従って立花姓に改姓した。一説によると、岩屋城落城の際、紹運の三男(統重)が糸島に匿われて糸島高橋氏となり存続したという伝承があり、この系統の高橋氏にも続く系譜がある。 他方、元種は九州征伐で島津氏側について敗北し、延岡に転封された。関ヶ原の戦いでも西軍に付いて敗れたものの、兄秋月種長と東軍の水野勝成の工作で内応していたために、その事前の寝返りが奏功して所領は安堵された。しかし、慶長18年(1613年)に突如改易となり、大名としての高橋氏は滅亡してしまった。原因として@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}複数の説[要出典]があるが、大久保長安事件に巻き込まれたものと思われる[要出典]。その後、元種の長男は父の預かり元となった宗茂が治める棚倉藩へ同行し、宗茂の柳河藩移封後にその藩主となった丹羽氏に仕官すると同氏の二本松藩への移封に従って同藩の藩士となった。次男は旧縁のある島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた。
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