三田井・豊後・日向方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
早くも2月には征討軍の軍艦「孟春」が西郷挙兵を知って横浜を出帆し細島に向かっている。3月1日夕刻には細島港に入港した。港湾内測量を行い3月3日には、下関に向かって出港した。3月29日には、下関から軍艦「浅間」が南下し細島港に入港したが、戦闘はなかった。4月29日、細島港に再び「孟春」と「浅間」2隻の軍艦が入港し、上陸する。富高新町(細島西方)の大区事務取扱所に入り区長、副区長を尋問する。 4月30日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町の守備および細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1個中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3個中隊を延岡に配置して、征討軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。 以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。5月14日、高城率いる正義隊など6個中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第1旅団は25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、征討軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への征討軍の進出を阻止し続けた。
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