広隆寺の宝冠弥勒とは? わかりやすく解説

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広隆寺の宝冠弥勒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 05:54 UTC 版)

弥勒菩薩半跏思惟像」の記事における「広隆寺の宝冠弥勒」の解説

京都府京都市太秦広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手中指を頬にあてて物思いにふける姿であり、傑作として知られる像高は123.3センチメートル左足含む)、坐高は84.2センチメートルアカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て思索ポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地現すが、元来金箔おおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手人差し指小指両足先などは後補で、面部にも補修の手入っている。。 制作時期7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木日本彫刻したとする説があり、決着見ていない。この像については、韓国ソウル韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式類似指摘される第二次世界大戦後まもない1948年小原二郎は、本像内部内刳り軽量化干割れ防止のため、木彫像の内部空洞にすること)部分から試料採取し顕微鏡写真撮影して分析した結果、本像の用材アカマツであると結論した日本飛鳥時代木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産クスノキ材であるのに対し広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年毎日新聞刊の『魅惑仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳り背板アカマツ材でなく、クスノキ似た広葉樹使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく造像当初のものとみられる。この点に加えアカマツ日本でも自生することから本像は日本制作されたとする説がある。 朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』記される推古天皇11年603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年623年新羅から請来された仏像どちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。 『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像厨子内にある)の像がもう1体宝髻弥勒にあたると考えられている。 本像についてしばしば「国宝第1号」として紹介されるが、本像と同じく1951年昭和26年6月9日付け国宝指定され物件は他にも多数ある。本像の「国宝第1号」とは、国宝指定時の指定書及び台帳番号が「彫刻第1号」であるということである。

※この「広隆寺の宝冠弥勒」の解説は、「弥勒菩薩半跏思惟像」の解説の一部です。
「広隆寺の宝冠弥勒」を含む「弥勒菩薩半跏思惟像」の記事については、「弥勒菩薩半跏思惟像」の概要を参照ください。

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