広陵・大連実業
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袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学するが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなり、広島市内から田部の係累が全部消え、長兄・真一、三兄・正三をたより満州に渡った、或いは学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満から、他に天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられたなどの説がある。菊池清麿は複雑な家庭環境によるものではと推察している。このため16歳で単身満州・奉天に渡りサラリーマンをしながら1924年、大連実業団(以下、大連実業) に参加し野球を続ける。六大学出身の花形選手が揃っていた当時の大連実業でレギュラーポジションを掴む。田部、谷口五郎(岩瀬五郎)、山本栄一郎らの大連実業と中澤不二雄が主将だった満州倶楽部 との戦い"実満戦"は"大連の早慶戦"と呼ばれた。勤務先は満州の営口実業団の後、東華銭荘に就職した。戦前の20年間を大連で暮らした清岡卓行は、田部の大ファンで、田部目当てで試合や練習を度々見に行ったと著書『大連港で』に書いているが、1924年当時の田部の勤務先は銭荘(両替所)だったと書いている。芥川賞受賞作『アカシヤの大連』でも田部についてふれられている。 1926年秋には大連実業の1番二塁手として内地を転戦。1927年、大連実業の明治大学OB・中島謙監督と小西得郎から、明治への進学を勧められ帰国し広陵中学四年に復学。復学か短期間の転入かは不明。当時広陵から多くのOBが明大野球部に進んでいた。広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年4月2日復学」と書かれているため、大道文(田村大五)は「退学したときの学年」に正直に戻り、当時中学は5年が修了期限であったが、四年修了と同時に大学に進学することも可能だったため、大学へ行く資格を取るために編入したのだろうと推理している。この頃春の選抜大会には年齢・学年とも制限が無かったため、この年21歳にして甲子園に出場。この前年度初優勝して「野球王国」広島の礎を築いた広陵 は、八十川胖(のち明大、八十川ボーク事件で有名)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(通称:ベーブ山城、立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われ、春連覇を狙い田部がエース3番として勝ち進み決勝までいくが、快速球左腕小川正太郎の和歌山中学(和中)の前に敗れた。この大会、決勝まで打ちまくり、走りまくりで、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかった。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていたが叶わず、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたという。しかし大投手・小川から7回裏に公式戦で初めての被本塁打(ランニングホームラン)を浴びせている。同年夏の選手権は「他チームでの在籍は1年のみ」という制限に引っ掛かり、田部は出場できなかった(代わってエースとなった八十川が2回戦、対敦賀商業戦で史上2人目のノーヒットノーランを達成するなどして勝ち進むが、またしても決勝で水原茂らのいた高松商業に敗れた)。 この1927年の田部の動きが分かりにくい。夏選手権が終わるとまた広陵中を退学し大連実業に復帰したと書かれた文献もあるが、清岡卓行著『大連港で』は、この年に第1回全日本都市対抗野球大会の満州代表を決める"実満戦"があり、田部はこの実満戦に遊撃手または二塁手として3番や1番を打ったが、一勝二敗と不覚をとり第1回都市対抗には出場が出来なかったとある。実満戦は年に一度、初夏に行われた定期戦のため、これだと田部は広陵で春選抜出場の後、また大連実業に戻ったことになり、広陵の在籍はごく短い期間だった可能性がある。
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