市郡合併と東京35区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:18 UTC 版)
日露戦争を機に日本が世界の一等国の仲間入りをしたという自負が国民の中に生まれた。また日露戦争により日本は軽工業から重工業に産業の中心が移り、東京~横浜間には徐々に京浜工業地帯が形成されはじめた。東京市の人口は日露戦争終戦直後の1906年(明治39年)に初めて200万人を突破したが、1908年(明治41年)の約219万人をピークに1913年(大正2年)には約205万人に減少した。そうした中でも東京市周辺の人口は増加を続けており、市内と周辺で相反する状況になった(詳細は国勢調査以前の日本の人口統計を参照)。 大正年間に入る頃から大東京という表現が見られるようになったが、それは多くの場合、従来の東京市(15区)と隣接5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域。豊多摩郡は東多摩郡と南豊島郡が1896年(明治29年)に合併して成立)に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。 1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が勃発(1918年(大正7年)11月11日終結)、これにより日本は1915年(大正4年)下半期から1920年(大正9年)3月まで大戦景気に沸き、市内も周辺も人口が増加した。1920年10月に行われた第1回国勢調査では、東京市の人口は約217万人だった。 1922年(大正11年)4月24日には旧都市計画法に基づき、東京市と上記6郡84町村が「東京都市計画区域」として定められた。同年10月2日には、当市を含む人口の多い6市が六大都市となった。 1923年(大正12年)9月1日に関東大震災(関東地震)が発生、東京市も被災し特に下町が大打撃を受けた。この影響で東京市の人口は減少し、1925年(大正14年)10月の国勢調査では、同年4月に第二次市域拡張を実施した大阪市に人口・面積ともに抜かれてしまった。1930年(昭和5年)10月の国勢調査では、人口200万人台を回復したものの、大阪市との差が拡大する結果となった(詳細は都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位を参照)。結局、当初の市域のままの東京市が大阪市を抜き返すことはなかった。 1932年(昭和7年)10月1日、東京市は市域拡張を実施し、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き、東京35区となった。1936年(昭和11年)10月1日に北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区へ編入し、現在の東京都区部の範囲が確定した。
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