左派との対決とは? わかりやすく解説

左派との対決

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)

蔣介石」の記事における「左派との対決」の解説

武漢占領受けて広州国民党中央国民政府党中央武漢移転決定し1927年1月1日国民政府武漢遷都した(武漢国民政府)。国民党右派要人蔣介石とともに北伐参加し南昌総司令部滞在していたため、武漢国民政府要職多く左派勢力占められた。蔣介石権勢拡大危機感覚えた左派陳友仁国民政府外交部長)、徐謙国民政府司法部長)、孫科孫文長男国民政府交通部長)らは、ボロディンと結び、蔣介石から権力剝奪しようとする武漢遷都直前前年12月先んじて武漢入った彼らは、国民党中央国民政府臨時連席会議組織して今後この会議が最高職権行使することを宣言した。そして、1月3日臨時連席会議3月国民党第2期3中全会武漢開催することを決議した。この3中全会決議蔣介石権限を縛ろうというのが左派計画であった。さらに左派領袖汪兆銘フランスから呼び戻して権力強化しようとする。汪を国民政府主席復職させて蔣介石牽制しようというのである蔣介石南昌総司令部軍事作戦指揮し武漢国民政府合流しようとはしなかった。蔣からすれば武漢国民政府共産党乗っ取られ政権見えたのである蔣介石は党の規約にない武漢臨時連席会議正統性認められないとし、南昌とどまっていた党中央執行委員たちと党中央政治会議招集党中央政府暫時南昌留め置くこと、第2期3中全会南昌開催することを決定した中国国民党中央委員会執行委員会主席国民政府軍委員会主席国民革命軍総司令である蔣介石総司令部構え南昌には、国民政府主席代理譚延闓国民党中央執行委員会常務委員会主席代理の張静江がいて、南昌党中央政治会議組織的正統性有していた。しかし、武漢側の工作により南昌党中央執行委員多く武漢赴いたため、南昌側の正統性揺らぎ武漢側が優位となった北伐軍事作戦ということもあり、武漢側との決裂避けたい蔣介石は、武漢訪問汪兆銘復職賛同するなど妥協図ったしかしながら蔣介石は軍握っており、江西広東など共産党左派影響が強い地方の党部を自派転換していくなど、左派との対決に備えていった。 結局第2期3中全会3月武漢開催され党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止国民革命軍総司令権限縮小集団指導体制確立などが決議された。これにより蔣介石権限掣肘加えられることになった。さらに3中全会では党・政府要職国民党左派共産党員が就くことが決議され、労工部長や農政部長など、労働問題土地問題といった共産党重視する問題を扱う閣僚に共産党員就任することになった共産党員閣僚就任はこれが初めてのことであった。そして、汪兆銘国民政府主席復職と、党中央執行委員会常務委員会の首席委員党中央組織部就任決定された。 こうしたなか、北伐軍3月22日上海24日南京入城した4月12日蔣介石は何千に及ぶ共産主義者容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃開始上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守同志支持受けて国民政府南京設立した国民党から共産主義者排除ソビエトからの顧問追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘国民政府武漢政府)は大衆支持されず、軍事的に弱体であり、まもなく蔣介石地元広西軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘彼の左派グループ蔣介石降伏し南京政府参加した

※この「左派との対決」の解説は、「蔣介石」の解説の一部です。
「左派との対決」を含む「蔣介石」の記事については、「蔣介石」の概要を参照ください。

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