左派の共闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 23:24 UTC 版)
コン・レーと中立派軍はヴィエンチャンから撤退したが、12月22日にはパテート・ラーオ軍の協力の下、戦略的に重要な7号線と13号線の合流点を占拠した。さらに、ジャール平原の9,000人の右派軍と9,000人のモン族ゲリラを排除し、1961年1月3日までにこれを占拠した。ジャール平原は空路・陸路のいずれにおいても、北ベトナム経由で軍事物資を受け取れる戦略的に理想的な位置にあった。以後、コン・レーは平原東部の村落カンカーイを拠点とし、2月20日には亡命したプーマ首相を迎え入れ、ここに政府を再建した。こうして、東側諸国に承認されたカンカーイの中立派政府と、西側諸国に承認されたヴィエンチャンの右派政府とに分かれ、内戦が続けられる。 カンカーイにおいては左派軍と中立派軍の統合が進められ、新たに高等混成軍事委員会が設置されると、コン・レーが議長に就任した。さらに左派=中立派軍には、北ベトナムを経由したソ連と中国の物資供給が絶えず行われた。北ベトナム側の分折によれば、1961年の時点で右派ノーサワン軍が35,000人の兵力を擁していたのに対して、パテート・ラーオ軍が15,000人、コン・レー軍が4,000人、プーマを支持したポンサーリー県知事カムウアン・ブッパー大佐の部隊が1,500人という勢力関係にあった。 やがてソ連・アメリカの国際的圧力により、ラオス中立化の機運が高まってくる。ジュネーヴにおいて国際会議が開催される直前、1961年5月3日をもって停戦が実行されたが、この時点で国土の3分の2がパテート・ラーオと中立派軍の支配下に置かれていた。 ラオス国内においては、中立派の政治組織を強固にするため、1961年9月にプーマ親王を党首とする「ラオス中立党」が結成され、コン・レーが副党首に就任した。また、停戦協定にもかかわらず、3派間における衝突は続いていた。一方で、左派スパーヌウォン、中立派プーマ、右派ブン・ウムの3親王による和平会談が国内外において断続的に行われた。その結果、1962年6月にプーマ親王を首班とする第2次連合政府の樹立で合意がなされ、さらに同年7月のジュネーヴ会議において「ラオス中立に関するジュネーヴ協定」が締結され、ラオスの国際的中立が承認された。
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