左派指導部の幹部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:02 UTC 版)
「エルンスト・テールマン」の記事における「左派指導部の幹部」の解説
テールマンら左派はこの10月敗北の原因をブランドラー指導部の右派的方針に求めた。すなわちブランドラーが「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針で社民党左派との共闘に固執して革命を裏切った結果であると批判した。 折しもソ連ではレーニンの後継者を巡る権力闘争の最中であり、トロイカ(ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン)とトロツキー及びその友人カール・ラデックの対立が起きていた。そのため両陣営間で10月敗北の責任の押し付け合いが発生し、最終的にはブランドラーとラデックに全責任があるとされた。ブランドラーの党内の立場は地に落ち、1924年2月19日のハレでの第4回中央委員会においてテールマンはブランドラーを激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議した。 代わってフィッシャーやマズローを議長とした左派指導部が発足した。テールマンも政治局入りを果たすとともに、党の副議長に就任した。同年5月には国会議員選挙に立候補して国会議員に当選。また同年夏にモスクワで行われた第5回コミンテルン大会でコミンテルンの執行委員に選出されている。1924年から1929年にかけては共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の議長も務めた。 1925年3月と4月に行われた大統領選挙に出馬した。旧帝政軍人で保守主義者のパウル・フォン・ヒンデンブルク、社民党やカトリックなどリベラル勢力の支持を受ける中央党のヴィルヘルム・マルクスの両名と争ったが、選挙は事実上ヒンデンブルクとマルクスの一騎討ちとなり、ヒンデンブルクが僅差で勝利している。テールマンは泡沫候補に終わった。ヒンデンブルクとマルクスの票差は僅差であったため、テールマンのせいでリベラル・左翼票が割れた面がある。
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