左派組織の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)
「トルコ・クルド紛争」の記事における「左派組織の発達」の解説
1946年には複数政党制が導入され、1961年には、実際には左翼組織とクルド主義組織には厳しかったが、憲法の上では結党の自由が認められた。すぐにトルコ労働者党(英語版)が結党され、1960年代の終わり頃にはクルド人とアレヴィー派がこの政党の支持母体となった。多くのものは土地の所有権に関する不満から、または部族長(agha)の影響力からトルコ労働者党(TWP)を支持していた。 一口にクルド人といっても、アレヴィー派・ザザ語話者・クルド人とクルマンジー語話者・クルド人とトルコ語話者・クルド人はそれぞれ明確に違う感覚を持っている。アレヴィー・クルドの政治的スタンスは、スンニー・クルドのそれよりもむしろ地元のアレヴィー・トルコ人に寄っていた。また多くのスンニー・クルドも、アレヴィー・クルドよりはスンニー・トルコを身近に感じていた。アレヴィー・クルドの持つマルキスト組織に対する興味は、ブルジョワの主導するクルド人ナショナリズムに対する無関心であり、ともすれば反発であった。しかしこのアレヴィー・クルドの複雑な思いはクルド人としての共感が育ってゆく中で自制されるようになり、クルド人の問題がスンニー・クルドとアレヴィー・クルドで共有されるようになった。こうしてクルド人の差別問題はTWPにより議題に挙げられるようになるが、1971年にこの政党は分離主義組織として違法とされた。 1970年代にはマルクス主義組織、クルディスタン労働者党(PKK)が作られ、トルコ政府とクルド人地主に対する武力闘争と社会主義クルディスタンの建国が掲げられた。彼らはシリアで軍事訓練を行い、1984年からトルコ南東部に展開するトルコ軍の駐屯地に対する攻撃を開始した。 1985年、政府はPKKに対抗するためにクルド人を武装させた。1987年には非常事態が宣言され、東部のいくつかの県には独裁的な執行力が与えられた。地域住民は敵を援助したと曰くつけられてはPKKと軍の双方から抑圧を受けるようになった。1990年代になると治安維持軍はPKKに対抗するためにスンニー派イスラム主義クルド人組織、ヒズボラをカウンターゲリラとして投入した。ヒズボラとPKKの双方による処刑、放火、強襲は住民を危険に陥れた。政府はPKKへの間接的支援を絶つために住人の立ち退きを強制したり、または村を焼くなどといった措置をとった。1999年までに2500の村が焼かれ、トルコ発表では36万人が移住を余儀なくされた。一方でいくつかの人権団体は1993年以降10年間で移住を強要された人々の数を250万人から300万人と見積もっている。1999年のアブドゥッラー・オジャラン(当時のPKKのリーダー)の逮捕までに4万人が犠牲になったとされている。 PKKはシリア政府と国外のクルド人指導者の支援を享受したが、クルド人の統一的な意見を代弁する組織ではなかった。例えばイラクのクルド人自治区では、クルディスタン愛国同盟と議長のジャラル・タラバニはPKkを支持したが、クルディスタン民主党のムスタファ・バルザーニーはトルコと協力しPKKに対抗した。
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