山新田信用組合とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 山新田信用組合の意味・解説 

山新田信用組合(真人村信用販売購買組合)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 08:07 UTC 版)

真人町」の記事における「山新田信用組合(真人村信用販売購買組合)」の解説

1913年大正2年3月10日設立当時、同集落25戸と小規模集落であったが、高金利の借金苦しんでいる農村を救う為、有志の7名が発起人となって設立組合員数25名、出資金247円(現在の100万円)と小規模だった。事務所組合長渡部久策氏の家を利用するなど役員尽力により、翌1914年大正3年1月8日行われた第1回総会の際は、4円58銭の余剰金を出す結果となり順調な始まりであった1917年大正6年第一次世界大戦景気農村広がったことや事業が順調であったことから、市之沢・源藤山若栃久保桂平北山孫四郎などの近隣集落加入したそういうことから、翌年大正7年からは、組合長宅を利用していた事務所から移転する為事所を建設購買販売事業始めることとなった景気良かったことから、これらが農村消費促し生活が変わった1920年大正9年)には真人地域加入と順調であった翌年には里地に真人支所設置1923年大正12年)、里地事所を役場の隣に新築販売事業は、首都圏に米の受託販売をし、徳差式調整機を設置するなどして精米また、大豆粕などの粉砕事業をした。1926年大正15年)には自宅事務所にするなど献身的に尽力していた渡部組合長勇退した。 昭和恐怖の際は、農家借金など行き詰まらなくなる。真人村では、税金滞納など今までなかったが、この頃農民組合小切手納税するなどしていた。この方法では、当人貯金額を超えた額で小切手利用されていたりしていて、時には貯金が無いのにも拘らず小切手を振る者もいた。これができたのは定款上で組合員信用評定定めてあり、当座借越契約がしてある為であった。 さらに不景気に追い討ちをかけるように、1931年昭和6年2月28日には山新田本店事務所重み倒壊したこのような困難な状況打破すべく立ち上がったのが、設立当初理事であり、1932年昭和7年)から請われ組合長の役を受けた市村栄七氏であった市村氏が引継ぎをした際、現金10円であった。そこで彼は私財銀行抵当入れ運営資金調達するなど、まさに私財投げ打った。更に在職6年間、私用組合に出なかったのは3日のみである献身ぶりだった。そんな献身的な彼を「真人農協歴史」では「中興の祖」と称されている。 1933年昭和8年)には出資金半額減資翌年9年大凶作で、多量飯米借入る状態になるなど多く障害ぶつかっていた。1938年昭和13年)に組合軌道に乗り始めたことから市村氏は勇退1940年昭和15年)、皇紀2600年事業として山新田事務所新築。これと引き換え真人村信用販売購買組合改称本店は里地事務所となる。 1943年昭和18年3月には農会合併し農業会になり、戦後農業協同組合となった

※この「山新田信用組合(真人村信用販売購買組合)」の解説は、「真人町」の解説の一部です。
「山新田信用組合(真人村信用販売購買組合)」を含む「真人町」の記事については、「真人町」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山新田信用組合」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山新田信用組合」の関連用語

1
真人町 百科事典
4% |||||

山新田信用組合のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山新田信用組合のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの真人町 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS