少壮将校時代とは? わかりやすく解説

少壮将校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:15 UTC 版)

根本博」の記事における「少壮将校時代」の解説

陸大卒業後、原隊復帰経て陸軍中央等において主に支那畑を歩む南京領事館駐在武官として南京駐在していた 1927年3月南京事件遭遇領事館襲撃してきた北伐軍暴兵に素手立ち向かったものの銃剣刺され、更に二階から飛び降りて脱出図った際に重傷負った自分が死ぬことで、幣原外交軟弱さを変えようとしたと後に語っている。 帰国後、1928年6月起きた満州某重大事件皮切りに満蒙問題などの解決のために国策研究する目的で、石原莞爾鈴木貞一村上啓作武藤章陸士21期生から27期生の少壮将校中心に同年11月に9名で結成され無名会(別名・木曜会)に参画する続いて翌年5月には、軍の改革人事刷新統帥国務からの分離合法的な国家総動員体制確立等を目指し永田鉄山岡村寧次小畑敏四郎板垣征四郎土肥原賢二東條英機山下奉文陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会加わった1930年昭和5年8月中佐として参謀本部支那班長となる。この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時根本班長思い出戦後回顧している。1931年昭和6年12月犬養毅内閣陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を、「昼行灯」と称して忠臣蔵大石良雄擬していたという。 1930年9月国家改造掲げ結社桜会にも参加するようになり、翌年には陸軍クーデター事件である三月事件連座するも、中心人物である橋本欣五郎急進派行動危惧不信感抱き、また一夕会東條らの説得もあり次第桜会から距離を置くうになる十月事件にも半ば連座するになったものの、幾人かの同士達と、当時参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画漏洩未遂終わらせる事に寄与一時期拘束処分済んだ

※この「少壮将校時代」の解説は、「根本博」の解説の一部です。
「少壮将校時代」を含む「根本博」の記事については、「根本博」の概要を参照ください。

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