少壮弁護士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 04:57 UTC 版)
大学を卒業した鈴木は、その年9月末に最初の弁護士試験を受けた。しかしこの際には、筆記試験では合格したものの、口述試験で不合格となっている。だが翌1921年(大正10年)7月に受けた2度目の試験では、合格者100名中7位の成績で合格した。この報を聞いた松浦は大いに喜び、鈴木の弁護士開業にも援助を行った。 帰郷した鈴木は、松浦の紹介で、静岡を代表する弁護士であった岡崎伊勢蔵の事務所に入り、12月から静岡地裁所属の弁護士として活動を開始した。弁護士会の所属は静岡弁護士会だったが、当時の静岡弁護士会には新人弁護士を会長に祭り上げる慣行があった。このため、最初に弁護士会へ挨拶へ出向いた鈴木は、先輩の弁護士たちから「来年の会長が来た、来年の会長が来た」と手を叩いて出迎えられ、面食らったという(当時の静岡弁護士会は特段に業務というもののない親睦団体のようなもので、会長職も雑用係と変わりない存在だった)。 かくして1922年(大正11年)4月に鈴木は静岡弁護士会会長に就任したものの、若年であった鈴木は、先輩弁護士たちが「先生」と呼ばれるなか一人「書生さん」と呼ばれ続けたり、司法修習制度のない時代のこと、法廷でも着席場所さえ分からず、相手方の弁護士から手取り足取り訴訟実務を教えてもらうなどの苦労があった。
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