小国の形成と倭国大乱とは? わかりやすく解説

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小国の形成と倭国大乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 07:59 UTC 版)

倭国」の記事における「小国の形成と倭国大乱」の解説

詳細は「倭#倭の国々」および「倭国大乱」を参照 「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物登場するのは、弥生時代中期紀元前150年頃のことであり、中国では、『漢書』記され前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝朝貢しており、多数の(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。 1世紀中葉建武中元2年57年)になると、北部九州博多湾沿岸にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与受けている。 『後漢書』東夷傳建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國南界光武賜以印綬」 これは北部九州における倭人政治集団統合進み、その代表として倭奴国後漢へ遣使したと考えられている。 『魏志』倭人伝みられる奴国」は、福岡平野比定地とされている。この地からは『後漢書』東夷伝記され金印漢委奴国王印」が出土しており、奴国中枢考えられる須玖岡本遺跡春日市)からは紀元前1世紀さかのぼ前漢鏡が出土している。また、伊都国」の中心考えられる三雲南小路遺跡糸島市)からも紀元前1世紀王墓検出されている。 その約50年後の永初元年107年)には、倭国王帥升後漢へ遣使し、生口奴隷)を160人献呈している。 『後漢書』東夷傳安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口六十人請見」」 107年文献名を残す日本史最古人物である帥升は、史料上、倭国王称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初め現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人代表する倭国呼ばれる政治勢力形成されたと考えられる後漢書は遥か後代編纂であるが、このことから、1世紀末から2世紀初頭にかけて、倭国ある程度代表する有力な政治勢力生まれたとする見解があるものの、日本列島各地豪族それぞれ倭国王称していた可能性否定できないいずれにせよ、これ以降7世紀最末期までの間、倭・倭人代表する/統合する政治勢力は、対外的に「倭国」を称し続けた帥升以降男子倭国王位を継承していったとされるが、2世紀後期になると倭国内の政治勢力間で大規模な紛争生じた倭国大乱)。

※この「小国の形成と倭国大乱」の解説は、「倭国」の解説の一部です。
「小国の形成と倭国大乱」を含む「倭国」の記事については、「倭国」の概要を参照ください。

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