対清戦線での敗北
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1639年(崇禎12年)に薊遼総督として洪承疇が着任し、東北の国境警備と清の侵攻の防衛にあたる。1640年(崇禎13年)冬、清軍は錦州と寧遠を攻め、洪承疇は援軍を派遣するが塔山・杏山で敗ける。この状況を打開するため、1641年(崇禎14年)に洪承疇は8人の総兵と13万の軍勢を率いて寧遠に集結する。 1641年3月、ホンタイジは大軍を率いて錦州を包囲する。錦州は明朝防衛のための重要拠点であるため、洪承疇は救援を決めるが、8人の総兵はいずれも命令に服従せず軍としての一体行動が難しい。そこで洪承疇は自陣から錦州まで徐々に、陣地構築しながら進軍し、兵の消耗を防ぐ作戦を主張した。こうして明軍は松山から錦州に至る拠点を使って清軍を攻撃し、局地戦としては優勢に転じた。 しかし兵部尚書の陳新甲は大軍を賄うだけの軍費の調達が難しいことを理由に、洪承疇に進軍を催促する。持久戦による清軍の消耗を待つことができなくなった洪承疇はやむを得ず1641年7月に軍を率いて錦州の南・松山の北にある乳峰山一帯に布陣し、清軍との決戦体勢をとる。 1641年8月、盛京のホンタイジは洪承疇が出てきた事を聞き、急きょ自ら正黄旗・鑲黄旗を率いて援助に赴き、明軍の南側にあたる松山と杏山の間に布陣し、大きく明軍を包囲する陣形をとった上で、明軍の退路・糧道を遮断した。 補給路を断たれて動揺した明軍では、洪承疇は一大決戦による事態打開を主張したが、各総兵は撤退を主張し、結局結論は中道を取った形で包囲を強行突破する事となった。突破作戦の途中、各軍は軍令も待たずに先を争って撤退し、清軍はこの好機を利用して敗走兵を追撃した。 洪承疇は残った数万の兵と共に松山城に入って何度も包囲網の突破を試みるがいずれも失敗し、崇禎15年2月壬戌(1642年3月22日)に松山城が陥落して洪承疇は丘民仰・曹変蛟・王廷臣らの部下と共に捕らえられ、3000名余りの兵が降伏した。他の部将は処刑されたが、洪承疇だけは捕虜として盛京に移送された。洪承疇は明朝への忠誠を示すために絶食を宣言したが、ほどなく洪承疇は投降する。 明朝の朝廷には初め洪承疇が死んだとの報せが届いた。これを聞いた崇禎帝は洪承疇のために丘民仰と共に都の外に祠を立て、王侯並みの「十六壇の弔い」で直々に弔ったが、第9壇まで来た時に洪承疇が実は清に下ったことを知って途中で取りやめた。
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