対清戦線での敗北とは? わかりやすく解説

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対清戦線での敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:21 UTC 版)

洪承疇」の記事における「対清戦線での敗北」の解説

1639年崇禎12年)に総督として洪承疇着任し東北国境警備と清の侵攻防衛にあたる。1640年崇禎13年)冬、清軍は錦州と寧遠を攻め洪承疇援軍派遣するが塔山・山で敗ける。この状況打開するため、1641年崇禎14年)に洪承疇は8人の総兵と13軍勢率いて寧遠に集結する。 1641年3月ホンタイジ大軍率いて錦州包囲する錦州明朝防衛のための重要拠点であるため、洪承疇救援決めるが、8人の総兵はいずれ命令服従せず軍としての一体行動難しい。そこで洪承疇自陣から錦州まで徐々に陣地構築しながら進軍し、兵の消耗を防ぐ作戦主張した。こうして明軍松山から錦州に至る拠点使って清軍を攻撃し局地戦としては優勢に転じた。 しかし兵部尚書陳新甲大軍賄うだけの軍費調達難しいことを理由に、洪承疇進軍催促する持久戦による清軍の消耗を待つことができなくなった洪承疇やむを得ず1641年7月に軍を率いて錦州の南・松山の北にある乳峰山一帯布陣し、清軍との決戦体勢をとる。 1641年8月盛京ホンタイジ洪承疇出てきた事を聞き急きょ自ら正黄旗鑲黄旗率いて援助に赴き、明軍南側にあたる松山山の間に布陣し大きく明軍包囲する陣形をとった上で明軍退路糧道遮断した補給路を断たれ動揺した明軍では、洪承疇一大決戦による事態打開主張したが、各総兵は撤退主張し結局結論中道取った形で包囲強行突破する事となった。突破作戦途中各軍軍令待たず先を争って撤退し、清軍はこの好機利用して敗走兵を追撃した洪承疇残った数万の兵と共に松山城入って何度も包囲網突破試みるがいずれも失敗し崇禎15年2月壬戌1642年3月22日)に松山城陥落し洪承疇は丘民仰・曹変・王廷臣らの部下と共に捕らえられ3000余りの兵が降伏した。他の部将処刑されたが、洪承疇だけは捕虜として盛京移送された。洪承疇明朝への忠誠を示すために絶食宣言したが、ほどなく洪承疇投降する。 明朝朝廷には初め洪承疇死んだとの報せ届いた。これを聞いた崇禎帝洪承疇のために丘民仰と共に都の外に祠を立て王侯並みの「十六壇の弔い」で直々に弔ったが、第9壇まで来た時に洪承疇が実は清に下ったことを知って途中で取りやめた。

※この「対清戦線での敗北」の解説は、「洪承疇」の解説の一部です。
「対清戦線での敗北」を含む「洪承疇」の記事については、「洪承疇」の概要を参照ください。

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