室蘭大谷でのサッカー指導
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「高橋正弘 (サッカー指導者)」の記事における「室蘭大谷でのサッカー指導」の解説
1966年(昭和41年)に大学を卒業して、室蘭大谷高の保健体育の教員に採用された。同校は後にサッカーの強豪校となるものの、当時はサッカー部が存在しなかった。高橋はあくまで教員として採用されただけで、採用時もサッカーの話はまったく出なかった。 高橋はこれに落胆することなく、自らサッカー部の創設に乗り出した。体育の授業で生徒たちにサッカーをさせ、素質のありそうな生徒に片っ端から声をかけた。25人の部員が集まり、「サッカー愛好会」が誕生した。 高橋は部員たちに、試合時間90分間を走り抜くための体力をつけさせるべく、陸上部顔負けの走り込みをさせ、学校に面した砂浜を5キロ、ランニングさせた。走るだけで体力を奪われる砂浜に、半数の部員が脱落し、愛好会発足の翌日には、部員はわずか8人を残すのみとなった。それでも高橋は、主将の部員に退学寸前の不良生徒を勧誘させ、愛好会を継続させた。 また学校にはサッカー設備が一切なかったため、漁網や廃木でサッカーのゴールを作るなど、室蘭大谷のサッカーは、まさに何も無いところから高橋と部員たちの手作りで作られていった。その後も部員たちと共に、土日も関係なく毎日、急な坂道を上っての6キロのランニング、冬季にはほかの部活が終わった後に体育館でミニゲームと、厳しい練習を重ねた。頑張った者には褒美にラーメンを奢るなど、「飴と鞭」の指導であった。 愛好会発足から約3か月後、試合をしたいという部員たちの要望に応え、国体北海道予選の室蘭支部大会に出場登録した。このときの部員数は9人しかおらず、サッカーの規定上の11人に満たない分は、他部から2人借用しての出場であった。初戦での相手が日本全国ベスト8の記録を持つ北海道室蘭工業高等学校であり、結果は0対13で大敗であった。しかし、ハーフタイムでの助言が後半戦の部員の動きに役に立ったことから、ハーフタイムの助言の大切さはこの試合が教訓になったという。後に高橋は、愛好会誕生後から数年のこの時期が最も一生懸命だったと語っている。 1967年(昭和42年)、大学時代に親しかった女性と結婚した。同年、サッカー愛好会はサッカー部に昇格した。愛好会時代も含めてずっと一勝もできていなかったものの、翌1968年(昭和43年)にはようやく中学時代のサッカー経験のある生徒が入部し、次第にチームらしさが出来上がり、公私ともに充実した日々を送っていた。
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