安田財閥の傘下に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 22:18 UTC 版)
大垣共立銀行は、明治年代に2行、大正年代に4行、昭和時代に3行を合併し、西濃地域の農業・商業金融を中心に発展してきた。一大転機となったのが、1904年(明治37年)、大垣に本店を有する美濃商業銀行の臨時休業に端を発する、西濃一帯の取り付け騒ぎである。この時、安田財閥総帥・安田善次郎は、第三銀行(のちの安田銀行)を通じて大垣共立銀行を支援する。これをきっかけに、1909年(明治42年)7月、安田保善社が大垣共立銀行の総株数の14.2%を引き受けその傘下に入ることになった。この結果、創立以来の頭取であった戸田鋭之助は副頭取となり、安田財閥より新頭取に安田善三郎(善次郎の娘婿)、取締役に安田善八郎(善次郎の娘婿・安田忠兵衛の娘婿)、監査役に杉田巻太郎が派遣された。以後、歴代頭取は同社から派遣されることになるが、頭取は在京のままのケースが多かった。 もともと、大垣共立銀行の源流である、第百二十九国立銀行は旧大垣藩主の異母兄・戸田氏寛が頭取を務め、取締役に旧藩上層部(元家老戸田三弥・戸田鋭之助など)がいたこともあり、地元では『殿様銀行』とあだ名されていた。こうした中、安田保善社より派遣された行員は、大垣共立銀行内に“前垂れ主義”、顧客第一主義を徹底させる。また、安田財閥傘下の銀行は、人事・貸出(1万円以上)に関する重要事項は全て安田保善社本社が稟議・承認する方針であった為、資金運用の効率化や健全性を求め営業基盤拡大が模索された。 1923年(大正12年)12月、名古屋市大曽根の農産銀行が乱脈経営により破綻した際、安田保善社を通じて大垣共立銀行に救済を求められ、同行買収により愛知県進出の地歩を築いた。さらに、1926年(大正15年)4月、共営銀行の買収によって三重・滋賀両県に進出した。 太平洋戦争直前と1943年(昭和18年)、金融当局より一県一行主義に基づき、同じ岐阜県内の十六銀行との統合を打診された際、大垣共立銀行役員会は『安田保善社系列以外との合併は拒否する』と決議しこれに抵抗する。安田銀行は大垣共立銀行との合併を検討したが、日銀より資金効率の観点から難色を示される。再三にわたる金融当局の勧奨により、1945年(昭和20年)5月には、役員会の大勢も「十六銀行との合併やむなし」に傾き、同年7月に十六銀行との統合交渉を開始するも、直後に岐阜空襲・大垣空襲が発生し交渉は中断、そのまま終戦となり合併は雲散霧消することになる。
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