安田財閥の経営を任される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 06:21 UTC 版)
井上準之助と高橋是清に推薦されて、1929年(昭和4年)に結城豊太郎の後任として安田保善社(安田財閥の持株会社)理事と安田銀行副頭取に就任して、実質的に安田財閥の最高経営者になった。穏健な性格なので安田家や叩き上げの番頭たちの意見を尊重し、財閥内部の融和に努めた。経営では安田善次郎以来の金融一業主義を遵守した。他より遅れて工業部門に進出するのは不利だと考え、工業部門の経営を担う人材が安田財閥には居ないと考えたからである。また、銀行・信託それぞれの部門に分権して自主経営をさせた。昭和初期に安田銀行は預金減少と浅野財閥への貸金の固定化と収益減少に苦しみ、財閥全体の業績がひどく悪化していたが、学卒者たちが、組織的な預金獲得や経営合理化を行い、考査課を新設して固定貸出先の調査と長期回収計画の立案と不良貸出先の再建を行って、安田銀行の業績を著しく改善した。その結果1937年(昭和12年)には、安田財閥は金融業では三井財閥・三菱財閥・住友財閥を上回った。森広蔵による安田財閥の組織・人事の再編成は、戦後の芙蓉グループ発展の基礎になった。
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