宇和島移封と改易
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関ヶ原の役が東軍の勝利で終わると、家康より二心無き旨を賞され、失った所領を復して本領が安堵されたほかに、伊勢国内に2万石を加増された。 以後は戦災で被災した津の城下町の再建に努めた。 慶長10年(1605年)、夫人の弟で信高の義弟にあたる坂崎直盛(石見津和野藩主)は、同じく夫人の甥にあたる宇喜多左門が、直盛の婢(もしくは小童)と密通していることを知って、家臣に婢(小童)を斬らせた。しかし左門がこれを恨んで命令に従って斬った家臣を殺してしまった。直盛の父である宇喜多忠家は左門の身を心配して、左門に書を与えて婿である信高のもとへ出奔させた。今度はこれに直盛が怒り、人をやって詰問したところ、信高はここを去ったと答えて隠したので、直盛は津城に自ら赴いて捜索しようとしたが、城主不在を理由に拒否されてさらに激怒。信高が伏見に行ったというので、信高の家臣を人質として奪って信高を追った。信高を捕殺しようという勢いであったが、これは家臣に止められたので、代わりに直盛は家康に訴え出ることにして、国制に背いた罪人を隠していると信高を告訴した。しかし家康は政務はもはや将軍秀忠に譲ったので裁断は公儀に仰ぐようにと指示してこの件を取り合わなかった。 慶長13年(1608年)9月15日、伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩10万1900石となる。(5万加増され併せて12万石とも) 同年、従四位下に叙された。 信高は宇和島藩政確立のため、海運工事や掘削事業などを手掛けた。 移封に伴い、宇喜多左門も密かに国を出て高橋元種(日向延岡藩主)のもとに身を寄せた。夫人はこれを憐れんで米300石の仕送りを送ったが、左門の従者が夫人の手紙を盗んで直盛のもとへ奔って帰国を願い出た。直盛は大いに喜び、慶長18年(1613年)、この手紙をもって江戸に行って今度は秀忠に訴え出た。偶々この時は家康も江戸城におり、10月8日、家康と秀忠、老中の列する中で裁定があり、夫人の罪が咎められて、信高は改易に処され、連座して弟佐野政綱(下野佐野藩主)も改易、匿った元種も同じく改易となった。また左門は処刑された。25日、信高は陸奥磐城平藩の鳥居忠政に預けられ、岩城に蟄居することになった。ただし、8年前の件で断罪されたのは表向きの口実で、真相は大久保長安事件に連座したという説が有力である。 寛永10年(1633年)に小名浜の妙心寺派禅長寺で死去した。
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