宇和島移封と改易とは? わかりやすく解説

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宇和島移封と改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 09:26 UTC 版)

富田信高」の記事における「宇和島移封と改易」の解説

関ヶ原の役東軍勝利で終わると、家康より二心無き旨を賞され失った所領復して本領安堵されたほかに、伊勢国内に2万石を加増された。 以後戦災被災した津の城下町再建努めた慶長10年1605年)、夫人の弟で信高の義弟にあたる坂崎直盛石見津和野藩主)は、同じく夫人の甥にあたる宇喜多左門が、直盛の婢(もしくは小童)と密通していることを知って家臣に婢(小童)を斬らせた。しかし左門がこれを恨んで命令に従って斬った家臣殺してしまった。直盛の父である宇喜多忠家左門の身を心配して左門に書を与えて婿である信高のもとへ出奔させた。今度はこれに直盛が怒り、人をやって詰問したところ、信高はここを去った答えて隠したので、直盛は津城に自ら赴いて捜索しようとしたが、城主不在理由拒否されてさらに激怒。信高が伏見行ったというので、信高の家臣人質として奪って信高を追った。信高を捕殺しようという勢いであったが、これは家臣止められたので、代わりに直盛は家康訴え出ることにして、国制背いた罪人隠していると信高を告訴した。しかし家康政務はもはや将軍秀忠譲ったので裁断公儀に仰ぐようにと指示してこの件を取り合わなかった。 慶長13年1608年9月15日伊予島城転封となり、これが宇和島藩10万1900石となる。(5万加増され併せて12万石とも) 同年従四位下に叙された。 信高は宇和島藩確立のため、海運工事掘削事業などを手掛けた移封に伴い宇喜多左門密かに国を出て高橋元種日向延岡藩主)のもとに身を寄せた夫人はこれを憐れんで300石の仕送り送ったが、左門従者夫人の手紙を盗んで直盛のもとへ奔って帰国願い出た。直盛は大い喜び慶長18年1613年)、この手をもって江戸行って今度秀忠訴え出た偶々この時は家康江戸城におり、10月8日家康秀忠老中列する中で裁定があり、夫人の罪が咎められて、信高は改易処され連座して弟佐野政綱下野佐野藩主)も改易、匿った元種同じく改易となった。また左門処刑された。25日、信高は陸奥磐城平藩鳥居忠政預けられ岩城蟄居することになった。ただし、8年前の件で断罪されたのは表向き口実で、真相大久保長安事件連座したという説が有力である。 寛永10年1633年)に小名浜妙心寺派禅長寺死去した

※この「宇和島移封と改易」の解説は、「富田信高」の解説の一部です。
「宇和島移封と改易」を含む「富田信高」の記事については、「富田信高」の概要を参照ください。

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