宇和島藩主伊達宗紀、宗城
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「吉田虎一」の記事における「宇和島藩主伊達宗紀、宗城」の解説
当時宇和島藩の諜報機関は藩主の特命と藩士の努力により日本屈指のものであった。各地方の実力者達からも宇和島藩士達は高く評価されており、藩主自らが直々に登用、藩主の警備、諜報活動、軍艦、鉄砲等新鋭武器の購入買付けにまで及び、藩主は文武に抜群の俊英御庭番より天下の情勢、動きをとらえていた。「史伝の人とその周辺伊予の巻」高橋紅六著によると、その当時、宇和島を訪れた有名な人物が書かれている。こうした諜報機関を通じて、勤王派各藩との横の連絡を密にした故もあって、史上有名な人物が続々と宇和島を訪れたが、一つには藩主の高風を慕って集まったこともいなめない。熱血の勤王画家藤本鉄石、土佐の海援隊隊長坂本龍馬、同陸援隊隊長中岡慎太郎、土佐勤王党総帥武市半平太、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、佐賀の江藤新平など、風雲の時代を背負って活躍した俊英が、続々と宇和島を訪れたが、漏れなく藩侯の人柄と叡智に心打たれたようである。宇和島藩主伊達宗紀、宗城の二人は当時日本全大名中の外国通として令名あり、英国公吏館通訳官アーネストサトウは其著「滞日見聞記」の中に於て、宇和島訪問の記述中、1月7日(慶應2年12月2日)は一日中烈しい雨であったが、斯々る天候にもめげず大名と隠居と艦にやって来た。隠居は顔立ちのきつい大きな鼻をした丈の高い人で年は四十九、大名階級きっての智恵者の一人だと評判されたと記されている。
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