子供時代、作家デビュー
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「トーベ・ヤンソン」の記事における「子供時代、作家デビュー」の解説
ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年にフィンランド銀行印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている。 ヤンソン一家はルオッツィ通り4番のアトリエで暮らし、トーベや弟たちは芸術と家庭が混ざり合う環境で育った。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した。学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、トーベは学校は苦手だった。ヤンソン一家はシグネの希望で夏をペッリンゲ群島のブリデー島ですごし、トーベは島々での暮らしを好んだ。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった。 1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った。トーベは14歳の時、オーケソンの仲介で週刊誌『アッラス・クレーニカ』に詩と絵を掲載して作家デビューした。1928年にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された。1929年に政治風刺を中心とする雑誌『ガルム(英語版)』に最初の風刺画が掲載された。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった。 挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった。その頃にはトーベはヘルシンキのアテネウムで画家として勉強しており、過去の冒険譚を自分の名で発表したくなかったとされる。
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