子供時代、初期の履歴とスペイン内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:51 UTC 版)
「ヘルマン・ホーゲバック」の記事における「子供時代、初期の履歴とスペイン内戦」の解説
1914年8月25日に当時ドイツ帝国の1州であったオルデンブルク大公国のイダー=オーバーシュタインで徴税官(英語版)の息子として生まれたホーゲバックは、1921年からアビトゥーアを取得して卒業した1934年までミュンスターで過ごした。卒業後にカッセルに駐屯するヴァイマル共和国軍の第5師団/第15歩兵連隊/第9中隊に士官候補生として軍務に就いた。士官教育を終えた1年後にホーゲバックは、空軍に転籍してノイルピーン、ルートヴィヒスルスト(英語版)、ドイチェ・ルフトハンザ(英語版)のR.B.-Streckeといった地でパイロットとしての訓練を受けた。この訓練期間中の1936年6月1日には少尉に昇進した。爆撃機パイロットとしての訓練を終了するとグライフスヴァルト教導航空団/第III飛行隊(III./Lehrgeschwader Greifswald)に配属された。この部隊は1937年4月1日に編成され、後に第1教導航空団(英語版)/第III飛行隊(III./LG 1)となった。その後ホーゲバックは1938年5月1日に第355爆撃航空団/第II飛行隊(II./Kampfgeschwader 355)へ、同年9月1日には第253爆撃航空団(Kampfgeschwader 253)へと転属した。 中尉に昇進するとホーゲバックはコンドル軍団 (Legion Condor)での実戦任務に志願し、スペイン内戦で100回以上の作戦に出撃した。コンドル軍団はナショナリスト派(英語版)を支援するためにスペイン内戦に従軍したドイツ空軍とドイツ陸軍からの志願兵で構成された部隊であった。スペインで第88爆撃飛行隊/第1飛行中隊(1. Kampfgruppe 88)に所属しての最初の出撃でホーゲバックは、共和国派(英語版)側の対空砲により撃墜された。この作戦はモーラ・デブレ(英語版)とエブロを目標とした攻撃で、乗機の右エンジンが被弾して出火した。サラゴサ=サンフルホ(Zaragoza-Sanjurjo)へ戻ろうとしたが、その途中で機体を放棄する旨の命令を出さざるを得なくなった。観測員のポッペンハーゲン(Poppenhagen)と航空機関士のヘルマン(Hermann)は何とか脱出したが、通信士のゲルハルト・パヒト(Gerhard Pacht)伍長(Unteroffizier)は負傷していて脱出できなかった。ホーゲバックも脱出したがアンテナと垂直尾翼に身体を打ち付けて頭蓋骨と肺を負傷し、無人地帯に降下して翌日の夜に発見された。1939年6月にスペインでの軍務に対して剣付スペイン十字章金章を授与された。
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