大崎館の時代とは? わかりやすく解説

大崎館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:01 UTC 版)

五反田東映劇場」の記事における「大崎館の時代」の解説

正確な年代不明であるが、1910年代には東京府荏原郡大崎町大字下大崎谷在家377番地現在の東京都品川区西五反田1丁目28番2号)に大崎館として開館した1916年大正5年11月14日日応が同館において、日蓮正宗日蓮大聖演説会開催した記録残っている。当初経営者は、当時浅草公園六区電気館千代田館経営していた新井與四郎1863年 - 没年不詳)で、興行系統日活であった同地は、1911年明治44年10月15日開業した官設鉄道五反田駅西側位置し、駅との間には目黒川流れ山手通り現在の東京都道317号環状六号線)沿い、大崎渡った右手であった1920年代の同駅近辺には、同館のほか、松竹キネマ帝国キネマ演芸作品上映する大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場大崎町桐ヶ谷354番地経営飯島金蔵)、東亜キネマおよびマキノ・プロダクション作品上映する龜齢館(大崎町桐ヶ谷696番地経営杉浦重吉)の3館が存在した池上電気鉄道現在の東京急行電鉄池上線)が延伸し、1927年昭和2年10月9日には大崎広小路駅1928年昭和3年6月17日には五反田駅開業したこのころには、五反田館(のちの大崎大映劇場谷山43番地経営磯崎興行部)が開館している。同年当時の同館の観客定員数は390名、支配人音吉興行系統日活でその専門館として知られていた。 1920年代後半発行され地図には、同館の所在地である「谷在家377番地」の隣地378番地」に「大崎館」と記されており、同地によれば377番地」は、角地である「378番地」よりも広い(右地図)。同地によれば大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場)は、同館の面する通り大崎広小路超えて南下した地点にあった1930年昭和5年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和年版によれば、同館の観客定員数は520名と従来よりも130名分拡大しており、経営小林喜三郎小林興行部、支配人青木寅治興行系統日活のままであった1932年昭和7年10月1日荏原郡東京市編入、同館の所在する大崎町品川区になった。『古川ロッパ昭和日記』には、1934年昭和9年10月17日古川ロッパが「大崎館小屋へアダヨ(新門の何とか)ザシで行く」との記述がある。同年10月1日、同館最寄り大崎広小路駅五反田駅がある池上電気鉄道目黒蒲田電鉄買収され目黒蒲田電鉄池上線となったが、その4年後には、同社専務取締役務め五島慶太社長になり、1938年昭和13年6月8日東横映画設立されている。東横映画本社は、目黒蒲田電鉄東京横浜電鉄同一渋谷区大和田町1番地置かれた。五島慶太は、同社設立先立つ1936年昭和11年11月渋谷東横ニュース劇場渋谷区上通り2丁目17番地)を新設同社設立年(1938年)には大崎館位置する品川区五反田2丁目377番地買収し同年11月には東宝五反田映画劇場として新築開館した

※この「大崎館の時代」の解説は、「五反田東映劇場」の解説の一部です。
「大崎館の時代」を含む「五反田東映劇場」の記事については、「五反田東映劇場」の概要を参照ください。

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