大崎館の時代
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正確な年代は不明であるが、1910年代には東京府荏原郡大崎町大字下大崎字谷在家377番地(現在の東京都品川区西五反田1丁目28番2号)に大崎館として開館した。1916年(大正5年)11月14日、日応が同館において、日蓮正宗日蓮大聖会演説会を開催した記録が残っている。当初の経営者は、当時浅草公園六区に電気館・千代田館を経営していた新井與四郎(1863年 - 没年不詳)で、興行系統は日活であった。同地は、1911年(明治44年)10月15日に開業した官設鉄道の五反田駅の西側に位置し、駅との間には目黒川が流れ、山手通り(現在の東京都道317号環状六号線)沿い、大崎橋を渡った右手であった。1920年代の同駅近辺には、同館のほか、松竹キネマ・帝国キネマ演芸の作品を上映する大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場、大崎町桐ヶ谷354番地、経営・飯島金蔵)、東亜キネマおよびマキノ・プロダクションの作品を上映する龜齢館(大崎町桐ヶ谷696番地、経営・杉浦重吉)の3館が存在した。池上電気鉄道(現在の東京急行電鉄池上線)が延伸し、1927年(昭和2年)10月9日には大崎広小路駅、1928年(昭和3年)6月17日には五反田駅が開業した。このころには、五反田館(のちの大崎大映劇場、谷山43番地、経営・磯崎興行部)が開館している。同年当時の同館の観客定員数は390名、支配人は梓澤音吉、興行系統は日活でその専門館として知られていた。 1920年代後半に発行された地図には、同館の所在地である「谷在家377番地」の隣地「378番地」に「大崎館」と記されており、同地図によれば「377番地」は、角地である「378番地」よりも広い(右地図)。同地図によれば、大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場)は、同館の面する通りを大崎広小路を超えて南下した地点にあった。1930年(昭和5年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同館の観客定員数は520名と従来よりも130名分拡大しており、経営は小林喜三郎の小林興行部、支配人は青木寅治、興行系統は日活のままであった。 1932年(昭和7年)10月1日、荏原郡が東京市に編入、同館の所在する大崎町は品川区になった。『古川ロッパ昭和日記』には、1934年(昭和9年)10月17日に古川ロッパが「大崎館て小屋へアダヨ(新門の何とか)ザシで行く」との記述がある。同年10月1日、同館最寄りの大崎広小路駅・五反田駅がある池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に買収され、目黒蒲田電鉄池上線となったが、その4年後には、同社の専務取締役を務める五島慶太が社長になり、1938年(昭和13年)6月8日、東横映画が設立されている。東横映画の本社は、目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄と同一の渋谷区大和田町1番地に置かれた。五島慶太は、同社設立に先立つ1936年(昭和11年)11月、渋谷に東横ニュース劇場(渋谷区上通り2丁目17番地)を新設、同社設立年(1938年)には大崎館の位置する品川区五反田2丁目377番地を買収し、同年11月には東宝五反田映画劇場として新築・開館した。
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