大学・社会人時代
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卒業後の1941年に旧制慶應義塾大学へ進学。東京六大学リーグで投手として活躍を始めたが、戦争の激化に伴い、1943年4月に文部省が通達したリーグ解散令により、六大学各校野球部は活動停止に追い込まれることとなった。同年10月13日で行われた出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦と呼ばれた試合)で5番打者・右翼手として出場した。太平洋戦争終結後に再開したリーグ戦では、加藤進とバッテリーを組み、慶大のエース兼5番打者として1946年と1947年の春季リーグ戦2連覇に貢献した。東京六大学リーグ通算成績は26試合登板、18勝6敗。1947年秋に繰上げ卒業後、滋賀県の大塚産業に入社。1948年の都市対抗にエース投手として出場、初戦で中和クラブを破るが、武末悉昌・宮崎要・深見安博ら後に西鉄入りする選手たちを多数擁し、この大会で優勝する西日本鉄道に準々決勝で敗れた。翌1949年の大会にも連続出場したが、初戦の全藤倉との引き分け再試合で敗退。
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大学・社会人時代
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明治大学に進学。二年生で首位打者、また1シーズン3本塁打、1試合13塁打(本塁打2、三塁打・二塁打各1本)の記録を作った。戦前の六大学リーグ戦の代表的スラッガーと呼ばれる。リーグ通算77試合に出場し281打数86安打、打率.306、4本塁打、62打点。明大在学中に自ら考案して身に付けたといわれるバットを体の正面でゆったりと構える独特の打法は神主打法と呼ばれた。この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで叩く打法であった。マスコミは「理論を超えた打法」「打法を超越した打撃」と騒ぎ立てた。 1934年、大学卒業後は野球部のない大同電力に就職。1936年発足の職業野球全球団による大争奪戦となったが「もう野球はあきたけんのう」と断って参加せず。しかし、野球からは離れず1937年、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチーム日本一の強豪・東京倶楽部に所属、3番ないし4番を打って第11回都市対抗野球大会で準優勝に貢献した。東京倶楽部は翌1938年シーズン前に解散。東京倶楽部在籍は1年のみで、この年発足した南海軍の創設に参加した。初代監督・高須一雄に"いの一番"に誘われた。岩本以外は全員無名選手だった。一度はプロ野球を断ったが、始まったリーグ戦を上井草球場で見て気が変わったという。高須には岩本が広陵中学時代の上海遠征で、新聞記者として引率して貰ったという恩があった。南海軍、初代背番号1。
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