大学・社会人野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 20:46 UTC 版)
高校卒業後は青山学院大学へ進学。東都大学野球リーグでは、エースとして二部リーグで2度優勝するが、入替戦で2回とも東洋大に敗れ、一部昇格はならなかった。二部リーグ通算68試合に登板。卒業後は社会人野球の東芝入り。1974年の都市対抗では2勝をあげ準決勝に進出するが、新日鐵八幡に敗退。直後に来日したキューバ代表と社会人野球選抜の交流試合にも登板。1978年の都市対抗野球ではエースを黒紙義弘(崇徳-亜大)に譲るが、準決勝で熊谷組に完投勝ち。決勝は黒紙が日本鋼管の木田勇投手に投げ勝ち、チームは初優勝する。翌1979年現役を引退。 1981年からコーチ、助監督を経て1988年監督に就任すると、同年の都市対抗でチームを優勝に導き、日本選手権でも初優勝、二冠を達成する。さらに1991年にも杉山賢人、丹波健二らを擁し都市対抗で優勝、1992年の日本選手権も制し東芝黄金時代を築いた。米国の野球技術書を選手に輪読させるなどで守りの野球を標榜、また勝負の流れを読む術に優れたアマ球界随一の知将と評された。
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