大和、武蔵
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両艦とも第一次南征によって消耗した4077師団に新たに配備された戦艦。新たに徴兵された新兵が乗組員のため、簡単な射撃訓練でも的を外し、あまつさえ金剛を誤射してしまうという醜態をさらした。
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大和・武蔵
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両艦とも1944年10月の捷一号作戦までは史実とほぼ変わらない。捷一号作戦時、大和は、史実では副長の能村次郎中佐(当時)が砲術長を兼任していたが、この作品では新任の藤堂明中佐が砲術長を務めていたことにされている。 シブヤン海で、武蔵の代わりに長門が米海軍高速空母機動部隊の空襲により沈み、サマール島沖での米護衛空母部隊との戦闘中に大和が被弾、栗田健男中将以下の第二艦隊司令部、宇垣纒中将以下の第一戦隊司令部、森下信衛艦長、能村副長らが全員戦死する(この時、大和の艦橋に命中したのは利根の主砲の流れ弾だったが、作品世界内でその事が明らかになったかどうかは不明。また、この利根の砲弾は後に北日本の秘密警察長官となった滝川源太郎が兵器工廠で仕上げたものとも示唆される記述もある)。大和の指揮は藤堂砲術長が代行し、武蔵他の僚艦と共にホモンホン沖で真珠湾帰りの米旧式戦艦6隻を撃沈。さらにレイテ湾で「セント・クリスピンの虐殺」と呼ばれる上陸船団及び海岸堡に対する艦砲射撃を行った。 本土帰還後、大和は損傷修理を兼ねた大改装を受ける。また、武蔵についても電探の更新と機銃などの増設が行われた。 1945年7月25日、武蔵以下重巡2、軽巡1、駆逐艦10からなる第2艦隊(司令長官・伊藤整一中将、武蔵艦長・藤堂明大佐)は沖縄沖で戦艦8、重巡最低3からなる米軍第54任務部隊と激突した。台風の影響もあって混乱した米軍が戦力を逐次投入してきた事も幸いし、武蔵は戦艦ミズーリ、ニュージャージー、インディアナ他1隻(作中描写からおそらくアイオワ)を撃沈し、他に戦艦数隻を大破させたが、ウィスコンシンなどの反撃を受けて甚大な被害を受け、最終的に沈没する。 1945年8月21日、大和と少数の駆逐艦からなる水上部隊は石狩湾に来襲したソヴィエト艦隊を迎撃、戦艦ガングート、セヴァストポリ、アルハンゲリスク他輸送船多数を撃沈・撃破する。大和自身も被弾し黛治夫艦長らが戦死するが致命傷とはならなかった。一方、既に道北地方を制圧しつつあったソヴィエトは、この敗戦によって北海道全島占領が困難となり、米軍が意図的にソ連軍に近い旭川と函館へ反応弾を投下したことによって日本が降伏。第二次世界大戦が終結した。
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