大仏座像の下廻りの構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)
大仏座像の下廻り部分の構造についての文献記録には、2代目大仏について記述した『愚子見記』と、3代目大仏について記述したケンペルの日記がある。『愚子見記』には、蓮台が二段になっていたとする記述がある。その材料について、「下二葉は木なり、上の段二葉は唐銅なり」とする。「二葉」は蓮台の花弁とその下の反花の二つを指すと思われる。ケンペルの日記でも同様に、蓮台が二段になっていたとする記述がある。「大仏は蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた」としている。上記等の文献史料及び発掘調査の成果によれば、大仏座像の下廻り部分の構造は床面から順に、(1)下の蓮台及び反花、(2)上の蓮台(『愚子見記』の模式図には上の蓮台の下に反花がある)、(3)大仏座像、ではないかと考えられている。蓮台が二段構造になっていたことは、「3代目大仏の1/10の大きさの模像と伝わる、現在の方広寺本尊座像」からも伺い知ることができる。 発掘調査では、大仏の台座が検出されており、外周に石を積み、その内側にこぶし大の礫と土を盛って高まりをつくっていると報告されている。またそれは床石材との切り合い関係から、円形に近い多角形と判明している。発掘調査報告書では検出された台座の径が、文献記録に残る下の蓮台の径とほぼ一致することから、「検出された台座 = (1)下の蓮台」が示唆されるとしている。この説に基づくと(1)は東大寺大仏・鎌倉大仏の台座のような石座となるが、それでは文献記録と相反してしまう(下の蓮台の花弁の材料について、『愚子見記』では「木」、ケンペルの日記では「石膏細工」とされている為)。現存する指図(設計図)でも石座は描かれず、(1)下の蓮台及び反花が、床面に接して描かれている。報告書では台座の外側に蓮華の花先が位置していることは明らかであるとされており、石座側部の表面に何らかの他の部材(漆喰細工の木製蓮弁など)で、装飾がなされていたと考えられている。先述のように『甲子夜話』には、寛政10年(1798年)の方広寺大仏・大仏殿焼失後に火災現場を訪れた東福寺の僧印宗の伝聞の話が記録されているが、印宗は表れた大仏の石座を見て「堂跡の灰塵を除けたれば、平坦と覚しきに是はいかに」と現場の者に質問した所、「ここは仏坐の下、蓮台の中の地形」との回答を受けたする。これは「下の蓮台」は、石座の表面に蓮弁の装飾がなされていたことと、その装飾のため普段石座は人目に触れることがなかったことを示している。なお以下は余談であるが類例として挙げると、鎌倉大仏は石の台座の側面を銅製の蓮弁で装飾する(台座を装飾して蓮台にする)計画があった。造立から数百年経過し傷みが目立ってきたので、江戸時代に改修工事の計画がなされたが、その際に上記計画が立案された。鎌倉大仏の修繕工事はなされたが、その数年後の寛保3年(1743年)に伽藍(大仏を除く)を火災で焼失した。そのためか台座の連弁装飾計画は途中で中止となり、使い道のなくなった銅製蓮弁4枚は、大仏の台座近くに放置されている。 (1)と(2)の2つの蓮台について、別の材料で造られていたことは、文献記録から明白である。(2)については大仏躯体の材料と同材(銅造ないしは木造)と考えられている。また(1)と(2)では、(1)の方が径が大きく造られていた。(1)の上面は『愚子見記』によれば「しきがわら」であったという。発掘調査では粘土を乾燥焼成した「塼(せん)」が大量に出土しているが、「しきがわら」とは「塼」を指すと見られ、(1)の上面は塼敷きだったと考えられている。ケンペルの3代目大仏のスケッチでは、(1)の「下の蓮台」の上面(塼敷きと考えられている部分)に花瓶や燭台が描かれており、供物を置くスペースとして利用されていたようである。 大仏及びその台座の周囲については、拝観者がみだりに中へ進入しないようにするため(台座に蓮弁の装飾が施されているとすれば、それに安易に手を触れられないようにするため)、八角形に配された木製の金剛垣(柵)に取り囲まれていた。方広寺大仏跡を紹介する書物などで、大仏の台座は八角形であったと紹介しているものもあるが、京都市埋蔵文化財研究所は、金剛垣(柵)が八角形に配されていたのであり、台座(下の蓮台)は先述のように円形に近い多角形で、八角形ではないとしている。なお大仏緑地に掲示の現地案内板には、台座は八角形との記述があるが、京都市埋蔵文化財研究所発行の発掘調査報告書『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡 2010年(2009-8)』では、当該現地案内板は、上記事実が判明する前に作られたもので、京都市埋蔵文化財研究所の誤認によるものとしている。金剛垣(柵)は、ケンペルの大仏のスケッチにも記録されている。なお大仏正面には賽銭箱が置かれていたが、江戸時代に度々盗難(賽銭泥棒)の被害に遭ったことが記録されている。
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