大仏大判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 08:50 UTC 版)
形式は長大判と同じく「拾両後藤(花押)」と墨書され五代後藤徳乗の書であり、右上に「大」と墨書されたものもあり、上下左右にやや大きめの丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印がある。形状はやや角ばった楕円形となり長大判より縦のサイズが短い。現存数は天正大判の中で最も多い。 豊臣秀頼が京都の方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿再建の費用に当てるために慶長13年10月(1608年)から17年1月(1612年)に掛けて鋳造されたものとされ大仏大判と呼ばれ、これは徳川家康が秀頼の蓄財を消費させる目的で方広寺の再建を指示したとされる。鋳造時期は慶長大判と重なるが、豊臣家によるものであることから天正大判の範疇に入れられる。 これにより大坂城に蓄えられていた分銅金の内、二千枚(約330キログラム)分銅17個、千枚(約165キログラム)分銅11個が消費された。
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