大いなる財宝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)
「ウィリアム・フィップス」の記事における「大いなる財宝」の解説
フィップスは次の航海は海軍本部が資金を提供してくれるものと期待していたが、チャールズ2世の崩御により即位した弟のジェームズ2世はそれを拒否した。ナルバラはフィップスとアルベマール公クリストファー・マンクを引き合わせた。アルベマールはジェームズ2世から特許状を得ており、フィップスに難破船捜索の権限を与えた。アルベマールはまた、フィップスの3度目の航海への資金提供者を募り、2隻の船を用意した。22門の200トンフリゲート艦「ジェームズアンドメアリー」と45トンのスループ船「ヘンリー・オブ・ロンドン」で、指揮官はフランシス・ロジャースだった。このロジャースは、前回の航海では二等航海士を務めていた。 1686年9月、フィップスはロンドンを発って、11月にヒスパニオラ沖に到着した。天候が悪く、その結果、翌1687年の1月まで財宝探しには取りかかれなかった。フィップスは小さい方の「ヘンリー・オブ・ロンドン」をヒスパニオラの北東の岸と岩礁の偵察にやり、2月の始め、この船は大きな掘り出し物の証拠を持って戻って来た。発見したのは「ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプション」で、スペイン人にはアンブロシアバンクスとして知られるこの地域(現在のシルバーバンク)で、1641年に難破していた。その時から4月まで潜水夫と乗組員が財宝のすべてを引き上げる仕事をした。財宝は金と銀の延べ棒に金貨と銀貨、宝石、そして工芸品だった。この財宝をめぐって暴動が起きることを考えたフィップスは、船乗りのと同じ給料で雇われている乗組員に、自分の利益から給料を払う場合は、配当も与えると請け合った。フィップスは細心の注意を払い、グレーヴサンドの港に着くまではどの港にも立ち寄らず、到着してからロンドンへの使いにこの知らせを持たせた。 フィップスは、難破船から30万ポンドの価値の財宝を取り戻したと報告書に記載した。しかし、現在の査定では21万ポンドそこそこの価値である。この総額が、冒険事業の25パーセントの配当を受けているアルベマールに伝えられた。フィップスは乗組員に8,000ポンドの報酬を払い、1万1千ポンドを得た。ロンドンでは英雄扱いされ、財宝の話はあちこちに広まった。フィップスの財宝は歴史を著しく変えた。それというのも、このために合資会社の形を取る企業が大いに増加し、イングランド銀行の行きつく形に大きな役割を果たしたからだが、一部の経済学者はこのことで論争を続けている。 フィップスと乗組員は投資家からメダルを授与され、フィップスは6月にジェームズ2世からナイトに叙任された。ジェームズ2世はまた、フィップスにニューイングランド・ドミニオンで、総督エドマンド・アンドロスの下の官職である憲兵隊長に任命した。1687年の9月、フィップスは、冒険の指示を出していないにもかかわらず、難破船の場所に戻った。将官であるナルバラは、この事業の株を買っており、安全のために海軍のフリゲート艦を提供したジェームズ2世からの支援を受け、彼自らがこの航海を率いた。この財宝さがしは失敗した。他の船が難破船を見つけており、20隻のもっと小さな船の一団から追い散らされた。1688年5月のナルバラの死去に先立って、1万ポンド相当の宝が見つかっただけで、それで航海は終わった。フィップスは5月の始めにその場を離れており、憲兵隊長(provost marshal general)の職に着くためボストンへと向かっていた。
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