夜叉国とセイウチ牙交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:36 UTC 版)
夜叉国に関する記述は流鬼国に関する記述の中に附属して見られるのみで、流鬼国以上に情報が少ない。先に挙げた『通典』流鬼の条の続きには以下のように記される。 ……また流鬼の長老の人たちの間に昔から伝わっている話として言うことには、その国の北、一ヶ月行程のところに夜叉という人たちがいて、その人たちは皆、豕の牙が突き出たような、人を噉らわんばかりの容貌であるという。[夜叉国の人たちは]その国から外に出ることがないので、いまだかつて〔その国から使節が〕中国にやって来たことがない。……其長老人伝、言其国北一月行有夜叉人、皆豕牙翹出、噉人。莫有涉其界、未嘗通聘。 — 杜佑、『通典』の巻200、辺防16、北秋伝、流鬼の条 夜叉国の出自についても諸説あり、何秋濤によるチュクチ民族説、白鳥庫吉によるユカギール民族説、佐藤達夫によるエスキモー民族説などがあるが、菊池俊彦は考古学研究の成果に基づいて夜叉国をオホーツク海北岸に住まうコリャーク民族の先祖、古コリャーク文化人に当てる。コリャーク人の伝承によると、彼らは元々西はオホーツク市一帯にまで居住していたが、エヴェン民族の東進によってカムチャッカ半島北部一帯に居住地域を狭めたという。これを裏付けるように、古コリャーク文化はカムチャッカ半島北部からマガダン湾一帯にまで広く分布している。 流鬼国と交流を持っていた靺鞨、また後に靺鞨を支配下に置いた契丹の間では「骨咄角(骨咄犀)」という品が流通しており、特に契丹人の間では、骨咄犀は皇帝の身につける品とされるほど珍重されていたという。骨咄角は「象牙とよく似ている」とされること等からセイウチの牙であると考えられるが、セイウチの棲息南限はアリューシャン列島であって靺鞨人・契丹人には直接入手することができない。しかし、同じくセイウチの回遊しないオホーツク海沿岸に住まうオホーツク文化の遺跡ではしばしばセイウチ牙を加工した遺物が出土しており、オホーツク文化人は交易によってセイウチ牙を手に入れていたことが確認される。古コリャーク文化の遺跡でもセイウチ牙製品は出土しており、また近代にもコリャーク人がカムチャッカ半島北部でセイウチ猟を行った記録があることから、セイウチ牙はコリャーク民族が産出していたと考えられる。 一方、古コリャーク文化の遺跡の一つ、スレードニヤ湾遺跡からは北宋の宝元2年(1039年)に鋳造された「皇宋通宝」が発見されている。またオホーツク文化の遺跡の中でも、稚内のオンコロマナイ貝塚からは「熙寧重宝」が、網走のモヨロ貝塚からは「景祐元宝」が出土しており、これらの中国銭は中国〜沿海州〜オホーツク文化圏(樺太・北海道・千島)〜オホーツク海北岸のルートで流通していたことがわかる。 以上の点から、菊池俊彦はオホーツク文化人(=流鬼国人)と古コリャーク文化人(=夜叉国人)は古くから交易を行っており、オホーツク文化人は中国銭などの大陸製品によって古コリャーク文化人からセイウチ牙を手に入れ、さらに靺鞨人・契丹人はオホーツク文化人からセイウチ牙を手に入れたのであろう、と総括している。また、北方少数民族の言語を専門とする言語学者の津曲敏郎は、セイウチの生息圏に住まうチュクチ・カムチャツカ語族で「セイウチ」を意味する単語が「牙」という意味でトゥングース語に取り入れられ、更にニヴフ語・樺太アイヌ語に「牙」「セイウチ」両方を意味する単語として入ったのではないかと推測する。その上で、本来生のセイウチを見ることができないはずのトゥングース人・ニヴフ人・樺太アイヌ人の間で「セイウチ」という単語が「牙」という単語と強く結びついて知られているのは、菊池俊彦が提唱したように流鬼国・夜叉国の時代から環オホーツク地域でセイウチ牙の交易が行われていたためであろう、と述べている。 なお、菊池俊彦は「流鬼国」という名称は「鬼が出入りする北東の方角=鬼門」と「唐の東北から海を流れ渡ってやってきた民族」のイメージが重なった結果つけられた名称であり、また「夜叉国」という名称は「流鬼国人とも異なる顔立ちの民族」から「容貌奇怪で人を喰らう夜叉」を類推してつけられた名前であろう、とも述べている。
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