外国軍の撤退開始後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:52 UTC 版)
4月、アフガニスタン政府はターリバーンにラマダン停戦を呼びかけたが、ターリバーンは攻撃を続けている。バルフ州ではチムタール郡の軍検問所が襲撃され、兵士10人が死亡した。 6月、州都から24キロ離れたバルフ郡の6割以上(184村中119村)がターリンバーンの支配下にあった。ターリバーンはアフガニスタン政府の治安部隊を激しく攻撃しており、郡内の軍基地や警察本部が大規模な攻撃を受けた。郡内では180人の民兵が政府側について戦っている。6月下旬、ターリバーンはショールガラ郡やダウラターバード郡を占領した。 7月、バルフ州ではカルダール郡やチャールボーラク郡など14郡中9郡がターリバーンに占領されていた。アタ元州知事は手勢を動員して、ターリバーンと戦うことにした。反政府勢力は反発し、ムハンマド・モハッケクの息子と会議中のアタ元州知事の自宅を迫撃砲で攻撃した。アタ元州知事などの地元有力者たちは政府に対して武器の供給や月給1万アフガニーと引き換えに5000人の民兵を派遣すると約束した。同月、ラシッド・ドスタムも政府に対して自分の手勢に対する武器の供給を求めた。同月、アタ元州知事は州都に司令部を設置して民兵に睨みを効かせ、配下の民兵達に不必要に市内に立ち入らないように命じた。一方、民兵には悪い話もあり、地域間の商取引を守るために何の訓練も受けていない素人が騙されて高速道路警備に駆り出され敵地に放り出され、戦死しても遺族には何の補償もないという話もある。 7月17日と7月18日、イード・アル=アドハー(犠牲祭)を前にアフガニスタン政府とターリバーンの和平協議がドーハで行われた。アフガニスタン政府は従来にない高位の要人を交渉団に参加させて、ターリバーンを説得しようとした。交渉団にはアタ元州知事やラシッド・ドスタムの息子のバトゥール・ドスタム(Batur Dostum Salam Rahimi)、サイイド・マンスール・ナーディリーの息子のサイイド・サダト・マンスール・ナーディリー(Sayed Saadat Mansoor Naderi )など北部軍閥の幹部が参加したが、交渉は決裂した。 8月7日から8月8日にかけて、ターリバーンは西隣のジョウズジャーン州やサーレポル州、東隣のクンドゥーズ州の州都を次々と占領した。8月8日、ターリバーンはマザーリシャリーフ近郊のデダーディー郡を攻撃した。8月9日、サマンガーン州の政府軍が撤退し、周辺の全ての州がターリバーンの占領地になった。8月10日、ターリバーンはナフリ・シャーヒー郡やデダーディー郡を守るアフガニスタン軍を攻撃したが、アフガニスタン軍が撃退した。しかし政府軍の前線は全長34キロメートル以上あるので脆弱だと言う。8月11日、ガーニ大統領やラシッド・ドスタム、ジュマ・カーン・ハムダードがバルフ州に来訪し、政府軍と民兵の協力についてアタ元州知事と会談した。ガーニ大統領は領土の奪還とゲリラ戦を行うつもりだと言う。8月12日現在、州都から24キロ離れたバルフはターリバーンの支配下にあり、ターリバーンの市長が治めている。国連によると、女性人権家がルール違反により射殺されたと言う。8月13日、デダーディー郡で戦闘が続いている。ターリバーンは住民を盾にして攻撃をしかけている。ジョウズジャーン州の飛行場で防戦を続けていたドスタム将軍の息子のヤール・モハマド・ドスタムがマザーリシャリーフに到着した。8月14日、ターリバーンが複数の方向からマザーリシャリーフ市に攻め寄せ、アフガニスタン軍や民兵が防戦した。同日、マザーリシャリーフ市は陥落した。一説によるとアフガニスタン軍があっさり降伏した為、民兵も戦意を失い、アタ元州知事やラシッド・ドスタムは州外に逃亡した。
※この「外国軍の撤退開始後」の解説は、「バルフ州」の解説の一部です。
「外国軍の撤退開始後」を含む「バルフ州」の記事については、「バルフ州」の概要を参照ください。
- 外国軍の撤退開始後のページへのリンク