外国の記録と年代の整合性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 07:58 UTC 版)
「鉄砲伝来」の記事における「外国の記録と年代の整合性」の解説
一方、アントニオ・ガルヴァオ(英語版)の著した『新旧世界発見記(葡: Tratado dos Descobrimentos, antigos e modernos)』には、『鉄炮記』の記述の前年にあたる1542年に、フランシスコとダ・モッタが日本に漂着したと書かれている。 No anno de 1542 achandose Diogo de freytas no Reyno de Syam na cidade Dodra capitam de hũ nauio, lhe fogiram tres Portugueses em hũ junco q' hia pera a China, chamauãse Antonio da mota, Francisco zeimoto, & Antonio pexoto. Hindo se caminho p'a tomar porto na cidade de Liampo, q' está em trinta & tãtos graos daltura, lhe deu tal tormenta aa popa, q' os apartou da terra, & em poucos dias ao Leuãte viram hũa ylha em trinta & dous graos, a q' chamam os Japoes, que parecem ser aquelas Sipangas de que tanto falam as escripturas, & suas riquezas: & assi estas tambem tem ouro, & muyta prata, & outras riquezas.西暦1542年、シャム王国のドドラに停泊していた船の船長・ディエゴ・デ・フレイタスの下から3人のポルトガル人が脱走し、ジャンク船で中国へと出航した。3人の名はアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト(ポルトガル語版)とアントニオ・ペショトで、北緯30度あたりにある寧波に進路を取った。しかし、嵐に見舞われ陸から離れてしまったところ、北緯32度で東に島を見つけた。その名は日本であり、まさに物語で語られる富貴の島ジパング(Sipangu)そのものであるらしく、金銀と豪華なものが溢れていた。 — António Galvão このほか、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』にも1542年、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』は1544年の主張があり、伝来に関して言及が見られる代表的な史料としては以下のものがある。 著者国著書言及年発行年アントニオ・ガルヴァオ(英語版) ポルトガル 『新旧世界発見記』 1542年 1563年 フェルナン・メンデス・ピント ポルトガル 『東洋遍歴記(ポルトガル語版)』 1544年 1614年 ジョアン・ロドリゲス ポルトガル 『日本教会史』 1542年 1634年 ディオゴ・デ・コート ポルトガル 『アジア誌』 1542年 1612年 ガルシア・デ・エスカランテ・アルバラード スペイン 『ビーリャロボス艦隊報告』 1542年 1548年 南浦文之 日本 『鉄炮記』 1543年9月23日 1606年 上記の他にも鄭瞬功が記した『日本一鑑』(1565年)や、ジョヴァンニ・ピエトロ・マッフェイ(イタリア語版)が記した『中国情報』(1582年)など、複数の史料に、鉄砲伝来及び日本列島に関する言及が見られ、その年代は1541年から1544年の間とされている。 これらの史料はいずれも発見の当事者ではなく、伝聞によって間接的に得た情報を元に後年になって記されたものであり、確定し得るものではないが、後年の歴史家によってさまざまな検証・考証がなされ、坪井九馬三が著書『鉄砲伝来考』(1892年)で『鉄炮記』の説を採用し、1946年にゲオルグ・シュールハーメルらが『鉄炮記』説を支持したことから今日の1543年に落ち着いた。現代において、この年代を見直す動きはあるものの、当時の欧州人の東アジア進出の速度を鑑みた場合、この時代に日本列島がヨーロッパ人によって発見されるのは必然であり、今後新しい史料によりその年代に差異が生じたとしても、それが近代史に与えた画期的意義に差異は生じないことなどから、大きな論争には至っていない。
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