壮年期まで
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享保11年(1726年)8月、備中国下道郡新本村(岡山県総社市新本)に生まれた。幼くして母を亡くし、祖母の下で育てられた。 若い頃は悪友に導かれ、邪路に迷った。20歳の頃は京都に在り、後に帰国して下道郡岡田村(倉敷市真備町岡田)で仲屋として薬を商ったが、博奕に耽り、大坂の薬種問屋から代金未納で訴えられるなど、かなり荒れた生活を送っていた。 宝暦7年(1757年)長崎で測量術を学んだともいわれるが、疑わしい。宝暦13年(1763年)上方に旅し、『山野地里津河』を著した。宝暦14年(1764年)1月、父護次が死去し、四国八十八箇所巡礼の旅に出て、『四国之道記』を著した。 明和6年(1769年)6月16日改心し、博奕を止めて生活を正す決意をした。
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壮年期まで
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「プブリウス・ウェンティディウス・バッスス」の記事における「壮年期まで」の解説
ウェンティディウスの幼少期~青年期の詳細は不明である。紀元前90年代のスッラとマリウスの抗争の際に、スッラ旗下のポンペイウス・マグヌスによりウェンティディウス一門の有力者がアウクシムムから追放されたことや、彼が長じてのち、キケロの著作などで、その幼少期の暮らし向きから「騾馬(ラバ)追い」呼ばわりされていることから、幼少期の彼は困窮していたものと考えられているが、これは後の創作とする説も有力である。 ただ、後の経歴から推測するに、仮に真実であるとしても困窮の中騾馬追いをしていた時期はごく短く、早い時期から一兵卒として軍務に服していたと思われる。カエサルの下で補給と輸送の管理の専門家として、職業軍人としての経歴を積んでいった。カエサルが暗殺されて以降はアントニウス派の将軍として働き、例えばムティナの戦いの敗北から脱出したアントニウスを、ピセヌムで徴募したばかりの古参兵3個軍団を率いて救出するなどの功績を立てている。 紀元前43年11月には、オクタヴィアヌス派のガイウス・カッリナスと共に補充執政官に就任した。本来の紀元前43年の執政官であったヒルティウスとパンサの死亡を受け、オクタヴィアヌスとペディウスが補充執政官となっていたところ、第2回三頭政治開始と同時に2人が退任したため、残り1か月の空白に、補充執政官に就任したものである。これはアントニウスとオクタヴィアヌスが自分達の派閥の人間にインペリウムを与えることが目的であったと思われる。補充執政官退任後の赴任地は不明だが、紀元前41年にはガリア・コマータ(北方ガリア)に赴任している事が分かっている。 アントニウスとオクタヴィアヌスとの抗争においては、例えば紀元前41年に同じアントニウス派の将軍ポッリオとの足並みがそろわず、ペルシアにて救出を待つ執政官ルキウス・アントニウスの救出を断念する(ペルシアの戦い)などの失敗もあるが、概ね地味ながら確実な戦果を積み上げていた。
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