壮士として自由民権運動に挺身するとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 壮士として自由民権運動に挺身するの意味・解説 

壮士として自由民権運動に挺身する

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:39 UTC 版)

憲政碑」の記事における「壮士として自由民権運動に挺身する」の解説

海老名浅草の二基の憲政碑建立主導した胎中楠右衛門は、1876年明治9年9月20日現在の高知県安芸市生まれた1890年明治23年)春、胎中故郷高知を後にして上京し上京後まもなく現在の神奈川県厚木市に居を定めることになった愛甲郡高座郡といった当時厚木市周辺三多摩地域は、加波山事件などを起こした自由党や、自由党流れを汲む者たちが起こした大阪事件などに関係した三多摩壮士活躍していた。幼い頃から高知県出身同郷先輩に当たる板垣退助のことを尊敬していた胎中は、やがて三多摩壮士加入して自由民権運動からの流れを汲む民党一員として活躍することになった1892年明治25年1月自由党入党した胎中は、同年2月初めに行われた愛甲郡神奈川県議会議員補欠選挙きっかけ壮士として活躍するうになる。まだ十代半ばであった胎中は、壮士として神奈川県議会議員補欠選挙立候補した自由党永野茂の応援奔走する。そして補欠選挙直後2月15日には第2回衆議院議員総選挙が行われ、神奈川県内活動した続いて1893年明治26年7月高座郡神奈川県議会議員補欠選挙が行われた。 当時高座郡神奈川県議会議員選挙では自由党改進党激しく争っていた。1893年明治26年7月補欠選挙も、改進党側から選挙事務不正疑惑追及によってやり直し選挙となったものであった高座郡県議補選はもともとの郡内での自由、改新両派の対立加えて衆議院総選挙激しく争っていた自由党改進党国政レベル対立重なり、両党が総力挙げて対決となった自由党側は党首板垣退助、そして星亨石坂昌孝らが選挙応援駆けつけ三多摩壮士運動員として動員された。対す改進党側も島田三郎大津淳一郎らが壮士たちを引き連れて高座郡にやってきた。両派の壮士たちはそれぞれ刀剣ピストルなどで武装し投票日近くになってくると選挙区各地流血事態頻発するようになった。特に7月11日綾瀬村吉岡行われた自由党演説会は、両派の壮士200名がピストル撃ち合うという大騒動となり、新聞各紙も「高座の血戦」、「流血選挙戦」とこの選挙戦報道した。この選挙戦血気盛ん若手壮士として胎中楠右衛門はその名を挙げることになった壮士として名を知られるようになった胎中は、先輩壮士紹介藤沢学業修めることができるようになり、また星亨知遇を得ることになって、後に星の食客となった。 もちろん壮士としての活躍改進党との民党間のいわば内ゲバばかりではなく民党対す厳し弾圧行っていた当局に対して激しく行われた胎中主な活躍場所は最初神奈川県下、後に食客となった星亨選挙区栃木県であった。そして胎中壮士活動通じて知己増やしていった。

※この「壮士として自由民権運動に挺身する」の解説は、「憲政碑」の解説の一部です。
「壮士として自由民権運動に挺身する」を含む「憲政碑」の記事については、「憲政碑」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「壮士として自由民権運動に挺身する」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「壮士として自由民権運動に挺身する」の関連用語

1
6% |||||

壮士として自由民権運動に挺身するのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



壮士として自由民権運動に挺身するのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの憲政碑 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS