壮士として自由民権運動に挺身する
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「憲政碑」の記事における「壮士として自由民権運動に挺身する」の解説
海老名と浅草の二基の憲政碑建立を主導した胎中楠右衛門は、1876年(明治9年)9月20日、現在の高知県安芸市に生まれた。1890年(明治23年)春、胎中は故郷高知を後にして上京し、上京後まもなく現在の神奈川県厚木市に居を定めることになった。愛甲郡、高座郡といった当時の厚木市周辺や三多摩地域は、加波山事件などを起こした自由党や、自由党の流れを汲む者たちが起こした大阪事件などに関係した三多摩壮士が活躍していた。幼い頃から高知県出身の同郷の先輩に当たる板垣退助のことを尊敬していた胎中は、やがて三多摩壮士に加入して、自由民権運動からの流れを汲む民党の一員として活躍することになった。 1892年(明治25年)1月、自由党に入党した胎中は、同年2月初めに行われた愛甲郡の神奈川県議会議員補欠選挙をきっかけに壮士として活躍するようになる。まだ十代半ばであった胎中は、壮士として神奈川県議会議員補欠選挙に立候補した自由党の永野茂の応援に奔走する。そして補欠選挙直後の2月15日には第2回衆議院議員総選挙が行われ、神奈川県内で活動した。続いて1893年(明治26年)7月、高座郡で神奈川県議会議員補欠選挙が行われた。 当時、高座郡の神奈川県議会議員選挙では自由党と改進党が激しく争っていた。1893年(明治26年)7月の補欠選挙も、改進党側からの選挙事務不正疑惑の追及によってやり直し選挙となったものであった。高座郡の県議補選はもともとの郡内での自由、改新両派の対立に加えて、衆議院総選挙で激しく争っていた自由党と改進党の国政レベルの対立が重なり、両党が総力を挙げての対決戦となった。自由党側は党首の板垣退助、そして星亨、石坂昌孝らが選挙応援に駆けつけ、三多摩壮士が運動員として動員された。対する改進党側も島田三郎、大津淳一郎らが壮士たちを引き連れて高座郡にやってきた。両派の壮士たちはそれぞれ刀剣、ピストルなどで武装し、投票日近くになってくると選挙区各地で流血の事態が頻発するようになった。特に7月11日に綾瀬村吉岡で行われた自由党の演説会は、両派の壮士約200名がピストルを撃ち合うという大騒動となり、新聞各紙も「高座の血戦」、「流血の選挙戦」とこの選挙戦を報道した。この選挙戦で血気盛んな若手壮士として胎中楠右衛門はその名を挙げることになった。壮士として名を知られるようになった胎中は、先輩壮士の紹介で藤沢で学業を修めることができるようになり、また星亨の知遇を得ることになって、後に星の食客となった。 もちろん壮士としての活躍は改進党との民党間のいわば内ゲバばかりではなく、民党に対する厳しい弾圧を行っていた当局に対しても激しく行われた。胎中の主な活躍場所は最初は神奈川県下、後に食客となった星亨の選挙区の栃木県であった。そして胎中は壮士活動を通じて知己を増やしていった。
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