在庁官人の職務と別の側面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:24 UTC 版)
「在庁官人」の記事における「在庁官人の職務と別の側面」の解説
国司のいない国衙は、留守所と呼ばれ、租税収取を所管する部署(税所(ぜいしょ・さいしょ等)、田所(たどころ)、大帳所(だいちょうしょ)、出納所(すいとうどころ)など)や、軍事を所管する部署(健児所(こんでいどころ)、検非違使所(けびいしどころ)、厩所(うまやどころ)など)、所務・雑務を所管する部署(政所(まんどころ)・調所(ちょうしょ)、細工所(さいくどころ)、膳所(ぜんどころ)など)が置かれ、在庁官人はこれらの部署に所属して実務に従事していた。 在庁官人の任務は多岐にわたっていた。新たな荘園が認可されると、在庁官人は荘園側とともに境界確認を行い、境界を示す牓示を打った。当時、国衙領からの租税収取を確保するために、国内が古代的な郡・郷から中世的な郡・郷・保という単位に再編成されていたが、これを管轄する郡司・郷司・保司に任命されたのも、主に在庁官人であった。国内の荘園・公領の領主・田地面積・作物等を記録した租税台帳である大田文の作成にも携わった。また、国内で紛争が発生した場合、臨時の国単位の軍事司令官たる追捕使・押領使などに任命され、国内武士を統率して国内の治安維持に当たる武力として機能した。また、平時にも国司館に結番・参勤していた。 以上のように見ると、在庁官人は国司の従順なしもべであるようにも思えるが、実態は決してそうではなかった。在庁官人は元々、現地の有力者であり、中央の国司に対する地域の利益代表としての顔も持っていた。そのため、彼らは婚姻を通して複雑なネットワークを形成し、国司の施策が自らの意向にそぐわなければ、国司へ反抗することもしばしば見られた。特に東国では、有力者層の独自性が強く、在庁官人でありながら国司に逆らったり、武力紛争を起こしたりする者が多かった。また、在庁官人は、郡司・郷司・保司に任命されると、郡・郷・保の公領・公田を自らの所領として扱う傾向があった。中には、高級貴族・有力寺社(権門勢家)へ寄進する者さえいた。在庁官人には、在庁官人としての側面を持ちつつも、荘園の開発領主・荘官としての側面も併せ持つ者が少なくなかったのである。 こうして、平安中期以降(11世紀~12世紀)、在庁官人の多くは、在地領主として、そして武士として成長していくこととなる。その過程においては国衙と在庁官人層の出自母体たる田堵負名層の権益などを巡る経済的、軍事的緊張と、それによる武力紛争の多発が大きく関わっていた。在庁官人はあるときは田堵負名層の利益代表として反乱側に、またあるときは朝廷・国衙の権力を保証する戦士として田堵負名層を制圧する側に立ち、地域における実権を構築していったのである。その傾向は関東で特に強く、在地における国衙の目代や荘園の預所といった在庁官人を翻弄する権力の排除を志向する動きが鎌倉幕府の成立へとつながっていく。実際、鎌倉幕府の有力御家人の多くは在庁官人出身である。
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