四条天皇の崩御(京洛政変)
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「仁治三年の政変」の記事における「四条天皇の崩御(京洛政変)」の解説
正月9日、四条天皇が12歳の若さで突然崩御した。『百錬抄』や『五代帝王物語』を信じれば、悪戯で宮中に滑石の粉を撒いたところ自らが転倒してそのまま死去したとされる。承久の変で配流された後鳥羽法皇の子孫を皇位から排除するために鎌倉幕府によって擁立された行助入道親王(後高倉院)の皇統がここに断絶したのである。 行助入道親王の皇統が絶えたことで、唯一の皇統となった後鳥羽法皇の子孫の中から次期皇位継承者を決める必要が生じた。このため、当時の朝廷の事実上の指導者で将軍九条頼経の実父でもある太閤九条道家は順徳上皇の子忠成王(仲恭天皇の異母弟)の擁立を策した。一方これに不満を持つ村上源氏の土御門定通は土御門上皇の子邦仁王の擁立を策した。両派とも鎌倉幕府の賛同を得るために鎌倉に使者を発した。 鎌倉幕府では北条泰時らが協議の結果、鶴岡八幡宮の神託を得た上で、邦仁王を次の皇位継承者に決定した。忠成王の父である順徳上皇は承久の乱に積極的に加担した上で配流先の佐渡国で健在であった。これに対して、邦仁王の父である土御門上皇は承久の乱には消極的で既に配流先の阿波国で病死していた。幕府には反幕府的な順徳上皇が京都に帰還して治天の君になるのを回避したいという考えがあった。加えて土御門定通の室である竹殿は北条泰時の異母妹にして北条朝時の同母妹、定通の弟は鶴岡八幡宮別当の定親であり、定通の主張が御家人全般の総意を得ることに成功したと考えられている。 ただし、京都の朝廷では長期間(11日間)の皇位の空白が出来た上に、鎌倉幕府の意向が朝廷の主流派が支持する忠成王ではなかったことから、当時の公家社会にも衝撃を与えた。当時の公家の日記である『平戸記』・『民経記』が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残している。また、我が子の即位と自身の京都への帰還が絶望的になったことを知った順徳上皇はこの年の9月に急逝している。なお、『平戸記』の同年10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」という記述があることから、順徳上皇は単なる病死では無く、絶食による事実上の自殺であった可能性も指摘されている。 その一方で、この政変を最大限に利用したのは九条道家の義父で頼経の外祖父にあたる西園寺公経であった。公経は鎌倉での決定を知ると、直ちに嫡男西園寺実氏の正室である四条貞子の実弟四条隆親の邸宅である冷泉万里小路第に邦仁王を迎え入れて践祚を行わせた(後嵯峨天皇)。続いて、後嵯峨天皇に働きかけて3月25日には関白を道家の娘婿である(公経にも孫婿にあたる)近衛兼経から道家の次男である二条良実に交替させた。良実は父・道家との関係が悪化していた一方、祖父・公経からは可愛がられて隆親の妹である四条灑子を正室として娶せるなど庇護が与えられていた。更に公経は天皇に仕える平棟子が懐妊したとする情報を手に入れると、6月10日には既に京都にも北条泰時重篤の情報が入っていた(後述)にも関わらず、実氏と貞子の娘である西園寺姞子を入内させて8月9日に中宮に立てられた。これは棟子に男子が生まれた場合に備えてより有力な皇位継承者を得る必要があると判断したことに加え、摂関家の機先を制して西園寺家から天皇の后妃を出す好機とみたことによる。勿論、娘婿である九条道家をはじめとする摂関家と対立する可能性はあったが、孫の良実を自分の手元に置いている以上、摂関家全体との衝突は起こり得ないのであった。以降、土御門家や四条家、そして二条良実を自派に引き込んだ公経が道家を圧迫するようになっていく。やがて、西園寺姞子は後深草天皇・亀山天皇を生み、平棟子が生んだ宗尊親王は後に鎌倉幕府の6代将軍となる。
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