椿葉の影
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貞成親王は当初、この書に正統な皇統である崇光天皇流が一旦は廃れて、再び興ったことを記したものであるという意味から『正統廃興記』と命名した。だが、後花園天皇の元服までの記述を追記した永享5年2月になって書名をより穏当な『椿葉記』に改めた。 「椿葉」とは、元々『新撰朗詠集』に納められた大江朝綱(後江相公)による「徳ハ是レ北辰、椿葉之影再ビ改マル、尊ハ猶ホ南面、松花之色十廻」という漢詩に由来する。これは、天子の治世が『荘子』(逍遥遊)において8千年の寿命があると記された椿の葉が2度生え変わる(すなわち1万6千年)まで長く続く事を願った詩であった。『増鏡』(三神山)において、承久の乱の影響によって皇統が守貞親王(後高倉院)流に移されて皇位継承から排除されていた後鳥羽天皇流の土御門殿の宮(土御門天皇の皇子)が石清水八幡宮に参詣したところ、「椿葉の影ふたたびあらたまる」という神託を受けた。その後、守貞親王流は四条天皇の崩御をもって断絶し、土御門殿の宮が急遽新しい天皇(後嵯峨天皇)として擁立されたという話が記されている。神託のくだりは、前述の大江朝綱の漢詩を基にして作成された逸話に由来したものと考えられている(『古今著聞集』巻8にも類似の逸話が所収されている)。 貞成親王は『椿葉記』の奏覧の辞において、後花園天皇による崇光天皇流の再興を「後嵯峨院の御例」(後嵯峨天皇による後鳥羽天皇流の再興)に擬え、著名な八幡の御託宣(「椿葉影再改」)のためしを引いて『椿葉記』と命名したと記されている。また、後嵯峨天皇以後、皇統は持明院統と大覚寺統に分立し、その中でも持明院統は崇光天皇流と後光厳天皇流、大覚寺統は後二条天皇流と後醍醐天皇流に更に分立していった。『椿葉記』の執筆意図には、後花園天皇の属する崇光天皇流こそが後嵯峨天皇を継承する正統な皇統であることを示す意図があったとされている。後嵯峨天皇の故事を通じて「椿葉の影」という言葉には、大江朝綱の詩に本来含まれていなかった皇統の継承という意味合いが込められるようになっていったのである。
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