四川での大虐殺(屠蜀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 17:26 UTC 版)
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている。1578年(万暦6年)に人口310万2073人 だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった。このため清朝の前半、1671年から1776年までの間にかけて湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が四川省へと移民した(湖広填四川)。現在の四川人の方言(西南官話)が北京普通話に近いのもこの時の張献忠による四川人殲滅殺戮によって古代四川人が壊滅したことが大きいとされる。 歴史学者の浅見雅一は張献忠に関する史料はほとんど後代の物であることを指摘し、同時代史料として次の物を挙げている。 張献忠に仕え、大西政権の崩壊までを目撃したイエズス会宣教師ガブリエル・デ・マガリャンイスがローマに書き送った1647年5月18日付の『四川省とキリスト教会が破壊され、失われたことについて、そして、その地でルイス・ブリオとガブリエル・デ・マガリャンエスが囚われの身になったことについての報告』 成都の大慈寺における大虐殺の生存者であるとされる欧陽直が著した『欧陽氏遺書』 1642年5歳のときに華陽県令として赴任した父の沈雲祚ともに四川にやって来て、体験したことを元に沈荀蔚が著した『蜀難叙略』 中国側の史料は清朝にとって不都合な事実や清朝を批判するようなことを記していないという批判を避けられないため、浅見はそうした心配の当たらないマガリャンイスの報告書を元に、中国側の同時代史料や他の史料を比較検討した結果、以下の結論を得た。 マガリャンイスの報告書は事実経過を述べるに当たり、非常に正確であること。『欧陽氏遺書』は事実経過について断片的であるがかなり正確なこと。『紀事略』は日時の記載にいくらか誤りがあるが、割合に信憑性があり、欧陽直と似た立場の者が著したと考えられること。『蜀記』については日時がほとんど誤っていて、事実経過も多く誤っているが、一部『欧陽氏遺書』以上に詳細に述べられており、それがマガリャンイスの報告書と一致することから、張献忠に近い立場であった者が著した可能性が高いこと。 「屠蜀」が事実であるかについては、実際にかなりの規模で行われたことは間違いなく、四川侵攻時における破壊、大西政権内部の反乱に対する鎮圧、四川を離れて陝西に向かう際の組織的虐殺の三段階に分類できると述べている。大虐殺を可能にした要因としては大西政権の成立時には張献忠はかなりの支持を獲得しており、それゆえに統治機構が整備されたことを挙げている。
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