四川の実権を掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/11/18 11:31 UTC 版)
1911年(宣統3年)秋、武昌起義に呼応して広西省の革命派が蜂起すると、胡景伊が広西都督に推挙された。ところが、胡には反清の意思が無かったため、上海へ逃亡し、その後四川省に戻っている。1912年(民国元年)2月、四川省南部で、北進してきた滇軍(雲南軍、雲南派)と川軍(双方とも革命派の軍隊)の間で紛争が発生する。滇軍とも深い縁を持つ胡景伊がこれを調停し、衝突を回避した。まもなく、胡景伊は四川都督尹昌衡の招聘を受けて成都入りし、全川陸軍軍団長に任命された。同年7月、チベット軍討伐に向かった尹の要請により、胡は北京の袁世凱から護理(代理)四川都督に任命された。 これ以降、胡景伊は尹昌衡を追い落として四川の実権を握ろうと謀り、袁世凱に接近してその権威を借りようとした。9月、袁世凱により四川民政長張培爵が北京へ召還され、胡が民政長を兼任した。1913年(民国2年)6月、袁は胡を四川都督に正式に任命し、尹は川辺経略使へ異動させられた。この人事に怒った尹は辞職する。それからまもなく、尹は胡により逮捕され、完全に失脚した。同年の二次革命(第二革命)でも、胡は当然ながら袁を支持し、熊克武ら革命派を鎮圧した。1914年(民国3年)6月、胡は威武将軍に任命され、四川軍務を督理した。
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