四川メディア界での活動
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麻布を売る小売商人の子に生まれる。15歳の時に、成都の文化初習学校で学ぶ。この頃から、孫文(孫中山)の革命思想に傾倒し始めた。 1916年(民国5年)から1920年(民国8年)5月まで、成都の新聞である『群報』の記者、『川報』の主筆をつとめた。民国8年夏に、少年中国学会成都分会に加入する。また、冬から、チベットに関する実地取材を『川報』で連載して、四川省の政界から注目を集めるようになった。 1921年(民国9年)、瀘州に拠っていた川軍(四川軍)第9師師長兼永寧道尹の楊森の下で、道尹公署教育科長に就任した。1924年(民国13年)5月、楊が四川軍務督理(督軍)に就任すると、盧は省教育庁長として招聘された。しかし盧はこれを断り、成都民衆通俗教育館長をつとめた。
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