四国の関ヶ原とは? わかりやすく解説

四国の関ヶ原

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 06:27 UTC 版)

黒田九兵衛直次」の記事における「四国の関ヶ原」の解説

慶長5年(1600年)、主君加藤嘉明東軍として参戦した関ヶ原の戦いの際に、毛利勢の侵攻備えて海沿い浜手御門守護する命令を直次は受けた9月10日毛利50騎超が三津浜襲来9月16 日に佃次郎兵衛尉と黒田九兵衛直次敵陣夜襲行い敵の首を数球討ち取り、敵の毛利方を散々に敗北させた。毛利勢は八幡山麓の如来寺(日尾八幡神社の隣)に立て籠もった。19日追討如来寺向かった黒田九兵衛直次長刀石(なぎなた石)で如来寺の門を打ち破り単身一騎駆け入ったが、敵方鉄砲射撃烈しく団扇指物に7発、総身に5発の銃弾を受け討ち死にした。(三津浜夜襲愛媛県松山市久米日尾八幡神社黒田九兵衛直次の霊を祀った黒田霊社がある。(同社縁起) 「天正年中大和大納言長公随身命終年月相知申さず候」 黒田九兵衛忠次天正年中長公仕え禄百五十石下され置き候故有って立退き後尾甚右衛門殿に仕え彼地にて一戦の剋軍功の働感状之れ有り後天十三七月三明院淡路国三原郡志智御拝領の節召し抱えられ知行五十石下され置き御銕鉋頭仰付けられ天正十八相模國小田原御陳並文禄元年朝鮮国征伐等の御供仕り慶長三年伊豫国眞崎御拝領の節其の御供仕り同国野間郡吉田村知行六百石下置かれ黒田九兵衛直次「同五年関ヶ原御出陳の御留守濱手御門相守る可き仰付けられ同年九月十日毛利軍五十余騎三津濱押し寄せ十六日次郎兵衛黒田九兵衛敵陣夜討仕り首数級討ち取り散々敗北八幡山如来寺立て籠り十九日亦相議し馳せ向い次長刀石を以って突き如来寺門戸打破勇力揮って唯一馳せ入り戦い仕候処敵方鉄砲烈しく発し団扇指物七つ総身五つ中り如来寺に於いて慶長五年九月十九日討ち死に仕候」 黒田九兵衛直次出典油断していた毛利軍夜討ちをしかけ、あわてふためく敵陣に一応の成果をあげることができたが、大軍相手厳しい状況変わりはなかった。そんな中戦略家である黒田が、いざ、敵陣攻め込もうとした時、配下武士は、「敵が矢や鉄砲構えて待っている場所なので、顔を出すのも難しい」と尻込みしてしまう。これを見た黒田は、「敵が矢や鉄砲構えて待っているとかは関係ないことである。主君のために一命捨てることは珍しいことではない。急いで攻めこむべし」と言って久米如来寺の門の敷居飛び越え敵陣中に斬り込んだ銃弾雨足のように飛びかかり、黒田臥して死んでしまうが、松前軍は最終的に山越戦いで勝利し毛利軍芸州引き上げた関ヶ原の戦いの後に松前城帰った嘉明は、毛利勢との戦いで松前勢が戦った所へ出向きどのような活躍あったかについての調査実施した。嘉明は黒田亡くなった如来寺訪れた際、黒田のふたりの子供に「ふたりの父は、あえて死を選んだと言い落涙したある日家来萩野が嘉明に黒田焦りすぎました松前軍勢持って如来寺囲み鉄砲使って攻め一方明けておけばその方向へ敵は撤退しますその時に、討ち取ったならば、黒田討ち死にはしなかったでしょうと言うと、嘉明は、黒田擁護する発言をする。「経験した者にしか、物事真実を知ることはできない武者大将として戦場に立ち配下指揮する時、配下がその指揮従わない場合には、このような行動をとるのだ」。その上で黒田の妻とふたりの子供に褒美出した出典

※この「四国の関ヶ原」の解説は、「黒田九兵衛直次」の解説の一部です。
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