四国の関ヶ原
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慶長5年(1600年)、主君加藤嘉明が東軍として参戦した関ヶ原の戦いの際に、毛利勢の侵攻に備えて、海沿いの浜手口御門を守護する命令を直次は受けた。9月10日毛利勢50騎超が三津浜に襲来。9月16 日に佃次郎兵衛尉と黒田九兵衛直次は敵陣に夜襲を行い敵の首を数球討ち取り、敵の毛利方を散々に敗北させた。毛利勢は八幡山麓の如来寺(日尾八幡神社の隣)に立て籠もった。19日の追討で如来寺に向かった黒田九兵衛直次は長刀石(なぎなた石)で如来寺の門を打ち破り、単身一騎で駆け入ったが、敵方の鉄砲射撃が烈しく、団扇や指物に7発、総身に5発の銃弾を受け討ち死にした。(三津浜夜襲) 愛媛県松山市久米の日尾八幡神社に黒田九兵衛直次の霊を祀った黒田霊社がある。(同社縁起) 「天正年中大和大納言秀長公随身命終年月相知り申さず候」 黒田九兵衛忠次「天正年中秀長公に仕え禄百五十石下され置き候故有って立退き其後尾藤甚右衛門殿に仕え彼地にて一戦の剋軍功の働感状之れ有り其後天正十三年七月三明院様淡路国三原郡志智御拝領の節召し抱えられ知行百五十石下され置き御銕鉋頭仰付けられ天正十八年相模國小田原御陳並文禄元年朝鮮国御征伐等の御供仕り慶長三年伊豫国眞崎御拝領の節其の御供仕り同国野間郡吉田村で知行六百石下し置かれ」 黒田九兵衛直次「同五年関ヶ原御出陳の御留守濱手口御門相守る可き仰付けられ同年九月十日毛利軍勢五十余騎三津濱へ押し寄せ同十六日佃次郎兵衛黒田九兵衛敵陣夜討仕り首数級討ち取り敵散々敗北八幡山麓如来寺へ立て籠り同十九日亦相議し馳せ向い直次長刀石を以って突き如来寺の門戸打破り勇力を揮って唯一騎馳せ入り戦い仕候処敵方鉄砲烈しく発し団扇指物に七つ総身に五つ中り如来寺に於いて慶長五年九月十九日討ち死に仕候」 黒田九兵衛直次出典: 油断していた毛利軍に夜討ちをしかけ、あわてふためく敵陣に一応の成果をあげることができたが、大軍相手に厳しい状況に変わりはなかった。そんな中、戦略家である黒田が、いざ、敵陣に攻め込もうとした時、配下の武士は、「敵が矢や鉄砲を構えて待っている場所なので、顔を出すのも難しい」と尻込みしてしまう。これを見た黒田は、「敵が矢や鉄砲を構えて待っているとかは関係ないことである。主君のために一命を捨てることは珍しいことではない。急いで攻めこむべし」と言って、久米如来寺の門の敷居を飛び越え敵陣の中に斬り込んだ。銃弾が雨足のように飛びかかり、黒田は臥して死んでしまうが、松前軍は最終的に山越の戦いで勝利し、毛利軍は芸州へ引き上げた。関ヶ原の戦いの後に松前城に帰った嘉明は、毛利勢との戦いで松前勢が戦った場所へ出向き、どのような活躍があったかについての調査を実施した。嘉明は黒田が亡くなった如来寺を訪れた際、黒田のふたりの子供に「ふたりの父は、あえて死を選んだ」と言い落涙した。ある日、家来の萩野森が嘉明に「黒田は焦りすぎました。松前の軍勢を持って如来寺を囲み、鉄砲を使って攻め、一方を明けておけばその方向へ敵は撤退します。その時に、討ち取ったならば、黒田は討ち死にはしなかったでしょう」と言うと、嘉明は、黒田を擁護する発言をする。「経験した者にしか、物事の真実を知ることはできない。武者大将として戦場に立ち配下を指揮する時、配下がその指揮に従わない場合には、このような行動をとるのだ」。その上で、黒田の妻とふたりの子供に褒美を出した。出典:
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