唐松山光雲寺の成立
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「物部文書」の「物部家系図」には、八幡太郎義家が前九年の役で安倍氏の残党を追っていたが、神社の近くで馬が田にはまり、逆に討ち取られそうになったところ1人の勇士に助けられた。勇士の正体が神社の祭神・愛子神(迦具土神)の化身であることが分かり、義家はこの恩に報いて神社を修復した上、神田72町歩を寄進したという話が伝わっている。この修復については1063年(康平癸卯6年)に行われたと記録する神社棟札も現存していることから、義家が参拝したいう伝説も事実と考えられる。また義家は前九年の役で戦功のあった物部長頼の父(あるいは兄)の長秀を修験として唐松山光雲寺明寿の号を贈り、このとき神仏習合の唐松山光雲寺となった。その後、義家は後三年の役の戦勝を当社に祈願し勝利したことから、1087年(寛治元年)より山北地方(仙北地方)を霞(かすみ、「掠」とも)として与え、蛇頭神楽の巡業を許可したと伝えられ、これが唐松神社蛇頭神楽の始まりとされる。現在唐松神社には3つの獅子頭が保存されており、うち室町期の木造獅子頭は県指定有形文化財になっている。 1680年(延宝8年)、秋田藩主佐竹義処が行った修復の際に唐松岳から現在の鎮座地へ拝殿が移された。この移転にまつわり、義処が神社の前を通る際は馬から降りなければならないとする下馬札を無視し騎乗したまま通過したため神罰に触れて落馬し、怒った義処が社殿を窪地へ移転させ本堂を格子のついた覆堂に閉じ込めてしまったが、再び神罰に触れて落馬し、加えて病を得たため、低地へ移動した社殿を拝殿とし、山の本堂を整備し直したとする伝説が残っている。しかし万治から延宝にかけて藩主導で羽州街道沿いに宿場町を整備するために、周辺に住む農民を強制的に集住させたという記録が残っているため、実際はこの整備に伴う移転であったと考えられる。 延宝8年の棟札には 草創従四位上出羽陸奥守八幡太郎源義家朝臣卍奉修復出羽国仙北郡境庄唐松山光雲寺愛宕勝軍地蔵権現社一宇 延宝庚申八月八日吉日祥日四位下侍従兼右京大夫佐竹冠者源義処朝臣 と記されている。 参道の杉並木はこの時に植樹されたものであるといわれ、現在秋田県の天然記念物に指定されている。 1870年(明治3年)、神仏分離令により光雲寺は廃寺され、愛宕神社(唐松岳)は郷社となるが、1878年(明治11年)、愛宕神社は氏神へ変更、唐松神社が郷社に列せられた。
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