唐松山光雲寺の成立とは? わかりやすく解説

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唐松山光雲寺の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 13:55 UTC 版)

唐松神社」の記事における「唐松山光雲寺の成立」の解説

物部文書」の「物部家系図」には、八幡太郎義家前九年の役安倍氏残党追っていたが、神社近くで馬が田にはまり、逆に討ち取られそうになったところ1人勇士助けられた。勇士正体神社祭神愛子神(迦具土神)の化身であることが分かり義家はこの恩に報いて神社修復した上、神田72町歩寄進したという話が伝わっている。この修復については1063年康平癸卯6年)に行われた記録する神社棟札現存していることから、義家参拝したいう伝説事実考えられる。また義家前九年の役戦功のあった物部頼の父(あるいは兄)の長秀を修験として唐松光雲寺明寿の号を贈り、このとき神仏習合唐松光雲寺となったその後義家後三年の役戦勝当社祈願し勝利したことから、1087年寛治元年)より山北地方仙北地方)を(かすみ、「掠」とも)として与え蛇頭神楽巡業許可した伝えられ、これが唐松神社蛇頭神楽始まりとされる。現在唐松神社には3つの獅子頭保存されており、うち室町期木造獅子頭は県指定有形文化財になっている1680年延宝8年)、秋田藩佐竹義処が行った修復の際に唐松岳から現在の鎮座地拝殿移された。この移転にまつわり、義処が神社の前を通る際は馬から降りなければならないとする下馬札無視し騎乗したまま通過したため神罰触れて落馬し怒った義処が社殿窪地移転させ本堂格子のついた覆堂閉じ込めてしまったが、再び神罰触れて落馬し加えて病を得たため、低地移動した社殿拝殿とし、山の本堂を整備し直したとする伝説残っている。しかし万治から延宝にかけて藩主導で羽州街道沿いに宿場町整備するために、周辺に住む農民強制的に集住させたという記録残っているため、実際はこの整備に伴う移転であった考えられる延宝8年棟札には 草創従四位上出羽陸奥守八幡太郎源義家朝臣卍奉修復出羽国仙北郡境庄唐松光雲寺愛宕勝軍地蔵権現社一宇 延宝庚申八月八日吉日祥日四位下侍従兼右京大夫佐竹冠者源義処朝臣記されている。 参道杉並木はこの時に植樹されたものであるといわれ、現在秋田県天然記念物指定されている。 1870年明治3年)、神仏分離令により光雲寺廃寺され、愛宕神社唐松岳)は郷社となるが、1878年明治11年)、愛宕神社氏神変更唐松神社郷社に列せられた。

※この「唐松山光雲寺の成立」の解説は、「唐松神社」の解説の一部です。
「唐松山光雲寺の成立」を含む「唐松神社」の記事については、「唐松神社」の概要を参照ください。

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