同治回民起義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:11 UTC 版)
「パンゼーの乱」も参照 1855年、鉱山の利権をめぐる回族と漢族の対立をきっかけとして雲南回民起義が始まった。杜文秀に率いられたこの反乱には雲南地方のジャフリーヤも参加した。杜文秀の反乱軍は大理を占領し、一時は自治政権を樹立したもののヨーロッパの新式の武器を用いた清朝政府軍に押され、1871年、馬明心の孫である馬聖麟を首領とするジャフリーヤは雲南の東溝で政府軍に包囲され、3年半の抗戦の後に全滅した。 また、1862年、陝西の回民は太平天国が陝西に入るとともに清朝に対して武装蜂起したが、陝西の回民軍は敗北を続けていた。これに対し1868年、寧夏のジャフリーヤは回民軍の要請に応じて董志原で包囲されていた回民軍にラクダ1500頭を用いて食糧支援を行った。1869年、ジャフリーヤは金積堡で回民軍と共に戦ったが敗れ、1870年に馬化龍はジャフリーヤの教えを生き残らせるために窪上というアホンを甘粛へと送ったのち清朝政府軍に投降、その後56日間の虐待を受けた後に八つ裂きにされて1871年1月31日に死亡した。馬化龍の首は腐敗を防ぐため漆で塗られ、10年間にわたって見せしめのために晒された。 馬化龍の家族や300人近い親戚はみな、成年男子は処刑、女子は流罪、反乱時に10歳未満だった男児は11歳になった時点で宮刑に処し、その後奴隷として地方に送るという刑罰を処された。馬化龍の2人の孫である馬進城と馬進西は反乱時にそれぞれ7歳と4歳であったため処刑は免れたが、そのうち兄の馬進城は、宮刑を避けようとするジャフリーヤの努力も叶わず宮刑を受け、現在の河南省開封市で満州人の役人のもとで奴隷として務めて、秘かにジャフリーヤの観察下に置かれるなか25歳または27歳で死去した。もう1人の孫である馬進西は、宮刑を受けるために、監禁されていた西安から北京に連行されているところを山西省でジャフリーヤによって救出された。彼は指名手配を受けたがジャフリーヤは彼をかくまい続け、ついに清朝の滅亡まで逮捕されることはなかった。馬進城と馬進西はともに第6代ムルシドとされている。 馬聖麟の息子であり後に第7代ムルシドに就任する馬元章は雲南回民起義に参加し、東溝が陥落する直前に地下道を使って脱出し、その後は中国各地に散らばった馬化龍の親族の情報を集めていた。張家川で宗教活動を開始した。この時ジャフリーヤは10年にわたって晒されていた馬化龍の首を取り戻し、危険を覚悟して彼のゴンバイを建設した。馬進西は馬元章とは別に道堂を建設し、ここにジャフリーヤは馬進西を第7代ムルシドとする「板橋門宦」と馬元章を第7代ムルシドとする「沙溝門宦」の2派に分裂した。しかし教義や儀式は全く同じである。
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