同志殺しを目的としたテロの応酬
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「革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」の記事における「同志殺しを目的としたテロの応酬」の解説
赤砦社派は6月13日『6・13軍声明』のなかで、現代社派との「全面戦争」を宣言し、「無制限・無制約の革命的テロ」を宣言。山田は幹部土肥・小沢(従来彼らは『革労協の「軍事部門」の担当』だったキャリア?)らと、巻き返しのための「革命軍」を早速強化、さっそく全国で「無制限・無制約の革命的テロ」を実行にうつすこととなった。 1999年(平成11年)7月、最大の学生拠点である明治大学は両派攻防の主戦場となった。7月2日、まず赤砦社派は学内で同派にとっての「目の上のタンコブ」、元明大生協理事の現代社派の荻野佳比古をターゲットとする。荻野は松戸市で出勤中のバイクを倒され、側頭部のみにハンマーで連打を浴びせられ、その場で絶命した。明らかに殺害目的のためのテロだった。 7月21日、狭間派は7・2の報復として神奈川大出身の赤砦派メンバー相川一郎明治大学生協職員を襲撃し、相川は翌日絶命した(なぜか赤砦社派の反応はこの人物に対しては冷淡だった)。狭間派はこの人物を「木元派をつくれと山田をそそのかした正体不明の撹乱分子」と呼んだ。 さらに翌日現代社派は波状攻撃を図り、7月22日に明大生田キャンパスに再度、全国動員公然部隊(計37名)を差し向ける。構内で情宣を行うのを口実にして学内の赤砦派拠点自治会ボックスなどを狙って入構してきたのは明白だった。狭間派は「投擲用の鉄片、青竹」で襲撃しようとしたものの、赤砦派は直対応せず、学生部の出した「退去命令」にしたがい構外に出る。ところが現代派はそれに従わず、気が付いてみればキャンパス内に自分らだけとなっていたため、入れ違いに突入してきた機動隊によって37名全員が、まんまと凶器準備集合罪と建造物侵入で逮捕・起訴されてしまい壊滅的打撃を受ける。ついでながら、なぜか事前に登場していた革マル部隊も、情宣とは名乗っていたものの、「真意」は学外に待機して手ぐすねひいている機動隊に、両派をできるだけ数多く逮捕させるための挑発を画策していただけのものにすぎなかった。 これを狭間派は「7・22弾圧」と命名し、この後何年間も機関紙で「7・22」と、繰り返し部隊が釈放されるまで、恨み言を書き連ねばならぬほど、この大量逮捕は大打撃となった。結局この不手際が従来狭間派が拠点としてきた明治大各キャンパスはじめ山谷にくわえ、さらにそれまで赤砦社派が存在せず、全国で唯一、狭間派の勢力圏となってきた福岡、九州大などでも無人同然となった狭間派の拠点へと赤砦社派が進出するきっかけとなった。 この当時、狭間派は赤砦社派の個々のメンバーに対して「自己批判のうえでの再結集」を表面上は呼びかけた。相川一郎を殺害しておきながら、こうした態度をとるのは不思議なことだが、「相川だけは例外」というのが現代社派の姿勢だった。ゴスペルグループとの闘争で被告となっていた赤砦社派のメンバーが自己批判して現代社派に合流、またもともと三里塚・芝山連合空港反対同盟から、撤退局面にあった熱田派に支援関係にあった赤砦。一方の同同盟の北原派との共闘関係にある狭間派は、北原派に断罪をせまり赤砦社派との共闘関係を断絶させ、赤砦社派はその勢力は現代社派に対して優位に立ちながら、三里塚では原則的な申し合わせ「同盟の前では内ゲバを持ち込まない」を守り、消去法的に「成田では革労協」というと狭間派…というシェーマが通用することになった。 その後、赤砦社派は佐賀大出身で全学連書記長を務めた現代社派の森田・福岡県委員会議長を11月に襲撃して殺害し、これを契機に九州大や福岡の寄せ場に登場、革労協の拠点は三里塚現闘以外、赤砦社派一色に塗り替えられてしまう。
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