合気道家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 15:29 UTC 版)
塩田は合気道の理合について、師・植芝が宗教用語や古語を用いた難解・抽象的な説明を行っていたのに対して、「中心力」「スピード・タイミング」と言った用語を使った平易な解説を心がけていた。また短期間で合気道の基本的な動きを身に付けられるよう、高弟である井上強一と共に、6種の基本動作と構えを編纂・制定した。 自らの技について塩田は、「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを植芝の教えとして度々語っていた。演武会においても、投技や組技だけでなく、相手の喉を指一本で突いて悶絶させたり、後ろからタックルしてきた相手に肩をぶつけて吹き飛ばすといった、多彩な当身技を披露している。 「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」という持論を持ち、高弟だった安藤毎夫の証言によれば、塩田が靴を履いた状態で玉砂利の上を歩いたときの足跡は親指にあたる部分が特にへこんでいたという。 植芝の門下生になった後、塩田は反射神経を鍛えるため、水槽の中を泳ぐ金魚の動きに合わせて左右に動くという訓練を8年間に渡って続けていた。その結果、塩田は超人的な反射神経と集中力を体得、視界から消えるとまで評された体捌きを完成させたと言う。反射神経にまつわる逸話は多く、自動車にはねられそうになった瞬間無傷でかわしてのけたという証言も残っている。 一方、超人的としか表現のしようがない塩田の演武について「あんな事が出来るはずがない。ヤラセではないか」と非難する意見が上がるが、セミナーなどで実際に塩田と手を合わせた者からは、その技に対する否定的な意見は少ない。格闘家・岩倉豪は、ボクシングジム入門2年目頃に参加したセミナーで塩田に挑戦し、本気で殴りかかるも投げ飛ばされて左肩を外されており、この時のことを「あれは超能力でもやらせでもなく、人体の構造を理解した本当の技術だ」と振り返っている。 1962年(昭和37年)に養神館を表敬訪問したロバート・ケネディ夫妻の前で行った演武では、塩田の強さを疑ったケネディの申し出によって同行していたボディーガードと手合せを行い、これを圧倒している(この時の様子は映像にも記録されている)。ケネディは後年、この時の様子について、「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押さえられた。その後でボディーガードは 『今朝は食事をしてこなかったものですから』と言ってはいたが、食事をしてきたら勝てたとは言わなかった」と回顧録「自由の旗の下に」に記している。 ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれた塩田は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。塩田自身は『日常、それ即ち武道』を信条としており、普段普通に道を歩いている時でも一切の隙が無かったと言われているが、生前弟子に対して「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていた。
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