台湾における墓と記念碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「台湾における墓と記念碑」の解説
島民の受難直後、双渓口河畔(現地)には首から下の遺骸が散乱していた。鄧天保や林阿九、楊友旺は生存者を送ってから、とりあえず殺害現場に一日かけて台湾式の土饅頭型の墓を5つ造り遺体を埋めた。 1874年(明治7年)台湾出兵時、この旧墳墓を目撃した日本軍の意気が上がったと、米国従軍記者が記載している。楊友旺および林阿九らは最初の墓を統捕の地に移した。5個の甕に移し1か所にまとめた。この墓は西郷従道らによって改修され、墓前に碑を造ることにした。適当な石がないため、中国大陸から取り寄せた。日本軍は12月2日に撤退することになっていたので、それまでに碑は間に合わせた。前面に「大日本琉球藩民五十四名墓」と刻まれ背面には建碑の理由が漢文で書いてある。西郷を初め日本の将兵、軍属一同で祭祀を行い、墓に深く慰霊の念を捧げた。西郷都督は供養料を年間20円送る証書を与えたが大正5年ごろから10円となり、いつしか途絶えたが、祭祀は現地で続いている。生還した人たちは報恩のために200円送ったが中国の官吏が着服し20円しか届かなかった。墓前祭は3月15日と7月15日に行われた。 日本の台湾併合直後の1895年、特別な墓前祭が11月15日におこなわれた。楊友旺、林阿九の子などを含む70名以上の参加を得て、紙幣を燃やし、祭辞を唱え、爆竹を鳴らした。 かつて生存者の島袋亀と会い、被害者全員の名前を調べた照屋宏は、高雄州知事に許可を得て、現地の墓の修復を発起した。修復は1928年1月28日に完了し、犠牲者の氏名が刻印された墓碑を前に、祭主を恒春郡守大村廉吉として救助者およびその子孫が参列し、墓前祭が執り行われた。 墓域は前方9.24m、背面9.10m、左側面12.80m、右側面12.84m、面積は117.76平方メートル(約36坪)におよび、墓の大きさは、前面3.90m、背面6.30m、左側面4.40m、右側面4.40mである。 太平洋戦争後の1979年(昭和54年)4月28日、台湾遭害者墓参団(22名)が台湾の現地で墓参した。出発前に墓地のある護国寺にも参拝した。現地から林明淵、林綿栄、楊添才、楊文貴など救援者の子孫が出席した。
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