台湾における「国語」
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「国語 (中国語)」の記事における「台湾における「国語」」の解説
中華民国が台湾を編入すると、1946年に台湾省国語推行委員会が設置され台湾で国語運動が始まる。中華民国政府は台湾移転後も、教育部国語推行委員会を維持し、国語普及や標準の整理、字典の編纂といった事業を行った。台湾では13年ほどで国語の普及を見た。この時期の台湾における国語運動の主要な目的として、脱日本化が挙げられる。当初は台湾語など国語以外の「方言」を土台として国語の普及が図られたが、次第に方言に対して抑圧的な政策が実施されるようになった。1960年代後期になると、中華文化復興運動を受けて台湾省政府は「台灣省加強推行國語實施計劃(台湾省国語推進強化実施計画)」を制定し官公庁、学校など公共の場所では一律に国語を使うことを義務付け、方言の使用を禁じた。1976年の廣播電視法(放送法)第20条は「播音語言應以國語為主,方言應逐年減少(放送言語は国語を主としなければならず、方言は毎年減らさなければならない)」と定めた。1985年には「語文法(言語法)」草案が完成した。3人以上の人がいる公の場で標準的な国語の使用を義務付け、方言の使用に罰則を設けるなどの内容に世論が猛反発した結果、立法計画から取り下げられた。この法案は国民党政権の一元的な国語推進政策の頂点とも評価される。 1986年の民主進歩党結党、1987年の戒厳令解除、1988年の李登輝総統就任など、政治面での台湾本土化・民主化が進むと、文化面でも台湾本土化、多文化主義への転換が図られた。一元的な国語推進策は再検討を迫られ、その結果、学校における方言使用への罰則の廃止、国語以外の言葉による放送に対する制限の撤廃、母語教育あるいは郷土言語教育の導入などが実施された。
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