台湾と樟脳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:26 UTC 版)
亜熱帯気候の台湾の山野は照葉樹林に覆われ、クスノキの大木が無尽蔵に林立していた。台湾総督府はクスノキ資源に着目し、樟脳の製造を基幹産業として位置付けた。クスノキ材を蒸留することで生産される樟脳は殺虫剤、防虫剤、香料、薬品としての用途に加え、当時、「新素材」として持てはやされていた合成樹脂・セルロイドの原材料として注目されていた。セルロイドは雑多な生活雑貨の素材に加え、写真フィルムの原材料として不可欠であり、欧米に多量に輸出されていた。 「樟脳と台湾」を参照 1904年3月、台東庁長の相良長綱が病死し、新庁長に森尾茂助が着任した。森尾は着任と同時に賀田組の樟脳製造事業を承認した。結果、日本の官憲が本格的にタロコ族の勢力域に進出することとなる。1906年(明治39年)初頭、賀田組の首班・賀田金三郎がウイリー社とコロ社(現在の秀林郷秀林村)での樟脳の製造を開始した。樟脳の製造には原材料のクスノキを伐採し、幹をチップ状に細かく粉砕して蒸留する必要がある。その作業のため山野に多くの労働者が分け入ったが、彼らがタロコ族の領域に出入りすることでのトラブルが予感された。もともとタロコ族には出草(首狩り)の習俗があり、その意味においての事件も充分に予感されることであった。
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