台湾移転後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 04:30 UTC 版)
国共内戦で国民党が敗退すると、青年党も1949年に台湾に移転する。青年党は民社党と共に政党結党が禁じられた戒厳令下の台湾において合法的に組織が認められた野党としての地位を得ることになった。組織の建て直しを図り、また勢力拡大のために党外の蘇洪月嬌、李万居、郭雨新等を各選挙で擁立、当選させている。しかし党は台湾に移ったものの、主席である曽琦とその後の代理主席李璜が台湾に渡っていないため長期に亘る党内の分裂を引き起こし、1968年(民国57年)に左舜生が台湾に渡るまで混乱が続いた。 同年、左舜生は党内の団結を図るため李璜の帰国を要請し組織の引き締めを行なった。同年の第12期代表大会で余家菊、左、陳啓天、李、胡国偉の5人が主席に選出されて集団指導体制が確立、中央党部も成立し、青年党は一応の安定を見ることになった。1979年(民国68年)の党第13期代表大会では李と陳の2人で主席に選出され双頭体制となる。1983年(民国72年)の第14期代表大会では、李が単独で主席に選ばれた(続く1988年(民国77年)の第15回代表大会でも同様)。1980年代、立法委員の謝学賢が李の支持を受けて党内改革を行ない、政党結党が解禁になると青年党の組織改革を実行した。
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